同窓会報 第四号 特集 母校「那覇高等学校」の草創期を支えた人々

城岳同窓会会報 第四号

特 集 母校「那覇高等学校」の草創期を支えた人

戦後沖縄の教育制度のスタート
戦後沖縄の教育制度は米軍政下の1945年(昭和20年)8月に設置された諮詢会(注1)教育部による「8・4制学校制度実施方針」を基点にスタートした。
那覇市教育史(平成14年3月発行)によると8・4制学校制度は、米国の8・4制の完全移植というよりもむしろ戦時中に短縮された中学校を高等学校(High School)と改称して8年の国民学校の上に積み上げたものと思われるという、いずれにせよ、日本で6・3・3制が実施される実に2年前のことである。

(注1) 「諮詢会(しじゅんかい)」:米軍政府の諮問機関で米軍政府と沖縄住民との意思の疎通を図る機関であり、戦後最初の中央政治機関である。後に沖縄民政府となる。

沖縄群島政府立「那覇高等学校」の誕生
そのような状況の下、わが那覇高校は、首里高校や糸満高校の創立に遅れること2年、1947年(昭和22年)10月1日、沖縄群島政府立首里高等学校分校として弾痕も生々しい天妃国民学校跡に呱々の声を上げた。
真栄田義見先生が分校主事として就任、学区域は那覇市、みなと村(注2)、小緑村、真和志村、豊見城村の一部と定め首里高校、糸満高校に在学中のこの学区の生徒を集めたのである。
1945年10月11日開校式を挙行、首里高校から314名、糸満高校からは255名、その他より12名が勇躍転校してきた。学年別の構成は1年生 104名、2年生220名、3年生163名、4年生94名の合計581名による新しい門出であった。後にこの10月11日を「開校記念日」とさだめる。

「同級生の中には、戦前の一中、二中、商業学校等の在学生及び、本土や外地からの引揚者予科練出身者等もいた。今でもそうであるが、みんな戦争中や終戦 後のいやな、苦しかった時代のことについては、あまり話したがらなかった。沖縄戦の戦闘に参加し、摩文仁の崖下で助けられた者、ハワイまで連行された者、 本土へ疎開途中の対馬丸が米潜水艦に撃沈され、一昼夜漂流して奇跡的に救助された者、外地(台湾、サイパン等)から着のみ着のままで引き揚げてきた者等が いた。年齢差も3歳位あった者もいたが、みんな仲がよかった」(創立80周年記念誌、1期卒、屋比久嘉光氏)。

(注2)「みなと村」:米軍需物資の集積 所である那覇港の荷役作業はこれまで日本軍の捕虜が行っていたが、1946年(昭和21年)末、彼等が帰還することになり、沖縄人で組織する那覇港湾荷役 作業隊(総支配人国場幸太郎)で請け負うことになった。その労務者用に2000棟の規格住宅(建坪6坪)を奥武山中心に楚辺、壷川、松尾、旭町、美田(現 在の経済連の西側一帯)、山下(後のペリー区)に建て、作業員の募集を行ったところ2000人の作業員とその家族で1万人に近い集落がたちどころに出来上 がった。この集落が「みなと村」(国場孝太郎氏が村長を兼任)である。1950年(昭和25年)8月1日にみなと村は那覇市に合併された。(那覇市史・ 1987年3月発行)

瓦礫と雑草の廃墟を教室へ
“鉄の暴風”の猛威に曝され廃墟と化した天妃国民学校跡を授業の出来る施設に整備することは想像を絶する難事であった。

開校に当たって当時の民政府から支給されたものは大きな角材が14~15本のみで、資金的なものは一切なく、すべて自力で学校を造れということだった。
当時を回顧して真栄田義見先生は「軍の資材集積所を回って資材を集め、足らない分は国場組の国場幸太郎氏の義侠的なご援助によって“幽霊やハブの巣窟の ようだった天妃”が見事に学校として生まれ変わった」と創立55周年記念誌に回顧しておられる。

とはいえ、「窓ガラスなどは一枚もなく木の枠にテントを張って戸にし、椅子も米軍の携帯ベッドの骨に板を打ち付けただけの粗末なものだった」(55周年記念誌、3期卒業、宮里真厚氏)。

翌1948年、念願の独立校となる
1948年(昭和23年)2月27日、首里高校那覇分校は念願の独立校として認可され、ここに沖縄群島政府立那覇高等学校は歴史的なスタートを切ったのである。初代校長は真栄田義見先生、教頭には阿波根直成先生が任命された。
同年3月28日、那覇高校第1期生103名の卒業式が行われた(男子68人、女子35人、合計103人)。

1948年4月1日、新教育制度の施行によりこれまでの8・4制が6・3・3制となり、那覇高校も新制高等学校として再出発した。 当時の2年を新制1年に、3年を新制2年に、4年を新制3年に切替え、新制1年の募集は行われなかったのである。

何とか校舎が整ったので次は運動場の整備だ。校舎の右隣の運動場予定地は爆撃などによる瓦礫で人力ではとても造成できる状態ではない。重機による整備を 米軍に陳情したところ、その代償に泊浄水場の整備を交換条件に要求して来たのである。

「当時の生徒はどんなに無理な仕事でも学校建設のためというので働いてくれた。グランド整備の代償としての丈余の深さに積もった旧浄水場跡の煉瓦、砂礫 の堀出しの仕事を一言の不平も言わずにやってくれたのには頭が下るだけだった。那覇の水道は那覇高生徒の汗の結晶によってその基礎が築かれたのである」 (55周年記念誌、真栄田義見先生)。

この泊浄水場の浚渫作業に参加した3期卒の新城猛男氏は「特に泊浄水場の作業は辛かった。1948年、作業の始まった7月中旬頃は梅雨も明け、太平洋高 気圧のど真ん中に覆われる那覇の最高気温の平均も31~32度と1年中で一番気温が高くて蒸し暑い「夏至(かぁちー)まぐり」の頃である。しかも浄水場は 埋設タンクで、泊の高台にあっても、タンク内は風もなく真夏の太陽に熱せられた砂利の輻射熱でゆうに40度を越す暑さであった。汗をかき、学校から提供さ れた「サーター水」を飲みながら、せっせと砂利の取り出し作業をした。お昼前、突然タンク内で不発弾が発火、白い煙が噴出し現場はパニック状態に陥った。 タンク内で伏せる者、外へ逃げ出す者、騒然となったが爆発はなく、燃え尽きて大事には至らなかった」と回想している(3期卒業40周年記念誌、)。

教員住宅も自給自足の時代
真栄田義見校長は教育の充実を図るには、まず職員の生活の安定を図ることが先決であるとし、民政府と交渉を重ねて十数棟の規格住宅(建坪6坪)を教職員住宅として割り当ててもらい、松尾一帯に建築した。

「建築は、国場組の大工が指導して男生徒が一緒になって造ってくれ、女生徒はもっぱら萱刈りを専門にしてく れ、与儀試験場の周辺や国場、遠くは真地の付近まで行って萱を刈ってくれました。・・・そのような難問を一つ一つ解決しながら、先生と生徒が一体となり、 多くの方々のご協力も得て那覇高校の歴史は始まったのですよ。・・・」(真栄田義見校長、3期生会40周年記念誌より)

生徒たちの献身的な働きによって校舎、運動場、教職員宿舎が次々と整備されて行ったが財政的な裏づけは全くない状態だった。

「運動場は校舎の右隣りから上ノ山中学校まで小高い所を整地しました。そこでバザールを開たり、演劇祭を催して資金の造成を図りました。当時は、戦災で 学校に資金もなく、また生活物資もありません。米軍からは廃品を貰って来て、子供服(落下傘や軍服を染色して仕立て直した物)、ハンガー(太い銅線で作っ たもの)や、私は缶詰の空き缶でジープを作ることになりました。20個出来上がり1個20円(B円)にしましたが瞬く間に全部売り切れました。とにかくこ の催しは成功して学校の資金が調達でき、幾分は教職員の福祉にも使いました。」(森島董祥先生、3期生40周年記念誌より)。

「開校式も無事済んで、授業が始まると時間割を見て驚いた。何と農業の時間があるのである。しかもそれがやたらと多いのだ。瓦礫を片付け、土を掘り起こ し、芋を植えるのが、その農業の時間の授業であった。食料不足を自らの手で解決せんものと奮起した教師がいたのである」(3期卒、宮里真厚氏、創立55周 年記念誌より)。

このような状況の下で1949年3月25日、第2回の卒業式が挙行された。卒業生数は男子121人、女子104人、合計225人。

戦後の那覇市は壷屋から始まった
ここで1945~46年当時の那覇市の状況を見てみよう。
1945年(昭和20年)10月、住民は各収容所からそれぞれの故郷へ帰還することが許可されたが、旧那覇市の市街地は米軍によって全面的に接収され、駐屯地、物資集積地として立ち入り禁止区域となっていた。

「那覇には永久に帰れない」と当時の軍政府政治部長が発言するほどであった。
そこで戦後沖縄最初の中央政治機関である沖縄諮詢会は陶器や瓦を製造する人々の壷屋への移住を米軍に訴え1945年11月に特例として、食器生産のため の陶工103名、続いて瓦職人136名の壷屋への帰還が許可されたのである。当時は行政区としての那覇市は存在せず、暫定措置として1946年1月、壷屋 は「糸満地区管内壷屋区」となった。

旧那覇市街の殆ど全域が立ち入り禁止区域になっていて、多くの米軍施設があった。また、軍施設から1マイル(1,6km)以内には住宅はもちろん「いか なる建造物」も建てることが禁止されていた事もあって、住民が入域できる区域といえば壷屋一帯を中心に、戦前は農耕や牧畜に使用されていたようなところ か、或いは墓地に隣接したところであった。
このように壷屋以外は立ち入り禁止であったにもかかわらず、人口が急増するにつれて牧志地域をはじめとして神里原、開南など開放地区がなし崩し的に広がっていった。

牧志には“闇市”が立ち、戦後の那覇市は無秩序ながら復興の兆しを見せ始めていったのである。その間軍政府は無許可建築の撤去を何度も警告している。

旧那覇市の市街地が漸次正式に開放されるようになるのは1949年(昭和24年)12月米軍政長官シーツ少将が“那覇を沖縄の首都とする”と発表して以 降のことである。1950年(昭和25年)10月、東町一帯に建築許可。1951年(昭和26年)3月若狭町1丁目の一部と辻町1,2,3丁目が開放され たのである。(那覇市史、1987年3月発行)

閑話休題。

猛烈な台風が那覇高校を二中跡地に
1949年(昭和24年)、この年の5月デラ、7月グローリアという超大型台風が2度も沖縄を襲い、当時、知念にあった軍政府、民政府の建物が吹き飛ば された。そのため鉄筋コンクリトの「上ノ山」と「天妃」を両政府が使用することになり、8月「この施設は軍政府、民政府庁舎に使用するから、貴校は県立第 二中学校跡地に移転せよ」とミラー軍政官の命令が下った。上ノ山国民学校跡は軍政府が天妃国民学校跡は民政府が使用することとなった。
筆舌に尽くせぬ程の生徒の勤労奉仕によってやっと学校の体裁を整えた天妃国民学校跡を明け渡し、1949年9月3日歴史と伝統の地、城岳麓の二中跡地に移転することになる。

「職員生徒の汗の結晶で学校らしくなった天妃を捨てるのは悲憤の涙に咽ぶという感もあったが、二中跡が恒久的に学校敷地として動かないものになるという ので片方の気持ちではまた喜んで移ったものである」(真栄田義見校長、創立55周年記念誌)。

戦後、二中の跡地は1948年(昭和23年)頃まで米軍の226輸送部隊のモータープールとして使用されていた。しかし、那覇高が引っ越す1949年9 月には既に開放されてはいたものの、そこには20軒余りの住民がテント小屋で生活をしていたのである。そのため1軒3000円の移転料を払って転居しても らい、米軍兵舎用のテント16張の仮設校舎を建てて授業を再開するはこびになった。

「3年の夏休み明け頃、テント小屋教室に入居。机、椅子は各自で手作り(?)、床は土間で机、椅子共ぐらぐらして高低あり。
雨が降ればテントの隙間から雨もりはするし、床は水浸しに・・。その頃から木造瓦葺教室の工事が始まり、私共は又校舎の基礎石の運搬から地固め、木材運 搬とか校舎造りの手伝いが始まりました。」(3期卒、又吉智英氏、三期生会40周記念誌)

「校歌」「校章」「校旗」制定される
1949年(昭和24年)10月、沖縄民政府文教部は二中跡地を正式に那覇高校校地として認可し11月1日から規格型木造校舎11棟(22教室)の建設 に着手、翌1950年3月竣工、辛かったテント教室から漸く解放されたのである。

同年3月17日、第3回卒業式を挙行。卒業生数は男子194人、女子141人、合計290人。

同1950年7月には戦災を受けて穴だらけになっていた県立二中の「志喜屋孝信記念館」も修復され、図書館や職員室等に使用された。12月には校舎の北 側に、後援会予算でブロック造りの生徒用便所が国場組によって着工されたが、予算の都合でその基礎工事の穴掘りは生徒の担当だった。

本校の敷地が永久確定し、教育環境も急速に整備されたのを契機に「校章」「校歌」「校旗」が制定さることとなった。

那覇高校第1期卒業の金城弘征氏は「校歌の周辺」と題した1文の中で「あの壮絶な地上戦を生き抜いて、身も心もボロボロになって学舎に戻ってきた若者た ち、街中が瓦礫の山と化したあけもどろ那覇の無残な姿、その中にぽつんと取り残された天妃小学校の残骸校舎、そんな状況の中ではまさに「世紀の嵐」しか生 まれようがなかったと私は納得できる。廃墟の中に立って自らの真情を歌詞にたくした真栄田義見先生、その心を深いところで受け止めてメロディーを振り付け した友利明夫先生、こうして生まれた「世紀の嵐」を私達は時代の証人として大切にしたいと思うのである」と語っている。(城岳同窓会誌第1号より)。

校歌「世紀の嵐」は作詞、真栄田義見校長、作曲は友利明夫先生(音楽担任)、校旗・校章の図案は島田寛平先生(美術担任)の作品である。

阿波根直成先生二代目校長に就任する
1951年(昭和26年)4月真栄田校長の那覇地区教育長転出に伴い阿波根直成教頭が第二代校長に就任した。阿波根校の喫緊の課題は那覇市の人口増に対応すべく教室の確保であった。

「当時の校舎は木造瓦葺校舎の割り当であった。将来のためにも、狭い校地にはブロック校舎の2階でなければならない。しかし、コンクリート校舎は認可され る見込みはない、木造資材を如何にしてブロック資材に化けさせるかという忍術まがいの芸当を演じなければならなかった。そうして出来たのが現在運動場の南 側に建つ10教室1棟の文教局規格外の校舎である。」(阿波根直成先生、創立55周年記念誌“城岳”より)
戦後の沖縄教育史上初めての鉄筋コンクリート教室である、このブロック2階建て教室の建設作業には職員生徒が毎日1時間の作業時間を時間割の中に組み込 み、校舎落成までの約半年間、労力を提供してくれたのである。この作業に参加した生徒は5期、6期、7期の生徒たちであった。

「校庭の一角にテントを張り、建築資材のブロック作りを始めた。女生徒は毎日波ノ上や若狭海岸から、石や砂を風呂敷に包んで運び、金槌で石を細かく砕 き、ブロックの骨材やバラスを造った。男生徒はセメントをこね、それをブロックの鋳型に流し、10教室分のブロックを製造した。 そして11月から、山城組の請負で建築工事が開始され、翌年の6月30日に、県内で最初の本格的な2階建ブロック教室が誕生した。基礎工事の穴掘り、ブ ロックの運搬や積み上げなどの作業はすべて生徒によってなされた」のである。 (写真が語る88年“城岳”より)

また、5期卒業の金城哲雄氏は創立55周年記念誌に「私たちは、つるはし、鍬をかついでの登校が日課であった。従って、中学、高校通してのことだが作業 の合間を縫って勉強した印象が強く記憶に残っている。現在に見る那高が名実ともに全琉屈指の名門校として発展してきたが、母校の発展のため寄与してきたん だという自負と誇りを覚えつつも、現在の生徒諸君に羨望をもつのも偽らざる実感である」と心のうちを語っている。

これら草創期の先輩達の筆舌に尽くせぬ労苦と献身が、その後の那覇高校躍進の礎となっていることをわれわれは決して忘れてはならない。 (文責:真栄田 修 那高8期)


参考資料
・創立55周年記念誌“城岳”(昭和40年10月)
・三期生会40周年記念誌(平成2月12月)
・城岳同窓会80年周年記念誌(平成3年12月)
・城岳同窓会50年の足跡(平成7年8月)
・写真が語る88年“城岳”(平成11年5月)
・那覇市史(昭和62年3月)
・那覇市教育史(平成14年3月)

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