[2]“学び”に飢えた勤労学徒
*60Wの裸電球の下で*
全日制の那覇高校は昭和24年9月、軍政府の命令で天妃小学校跡から二中跡地に移転を強要された。当初はテント張りの仮校舎16棟でのスタートだったが、 軍政府の配慮もあってか民政府工務部設計による規格木造校舎11棟(22教室)をわずか半年の突貫工事で完成させた。従って、校舎は比較的整備されてはい たものの、定時制高校が夜間授業を行うためには、生命線ともいうべき“照明設備”に大きな問題を抱えていた。
定時制の創立から2年半後 に教諭として赴任した幸地良一先生(那覇高2期、13代那覇高校校長)によると「設立当初の定時制の照明施設は極めて貧弱であった。米軍払下げの自家発電 機で一教室に“四個の60Wの裸電球”がぶら下がっていて、後列の生徒の顔も目の悪い私には判別できない程度の照明であった。しかも発電機が軍の廃品であ るだけに、故障による停電は茶飯事のことで、一夜に何度となく起きることもあった」。(「記念誌」)
*ローソクは夜学生の必需品*
そのため生徒たちは、常時カバンにローソクを入れて登校した。ローソクは夜学生の必需品となっていた。
「ある日、私の数学の授業のとき、突然停電した。生徒はすぐにカバンから“ローソク”を取り出して点灯し、授業を再開したが、黒板の字がよく見えないとい う。数学の授業はどうしても黒板が必要であるため、生徒も私も困ってしまった。そこである生徒が、自転車を2階の教室に運び入れ、ライトで黒板を照らした ら、何とか字が見えるようになったので、一斉に大拍手が巻き起こった。男子生徒が次々にペダル漕ぎを交替し、1時間の授業を何とか無事終了することが出来 た」。(幸地先生「記念誌」より)
そのことがあって以来、“自転車による自家発電”は停電時の定番となった。
生徒の我喜屋良喜 さん(1期生)も城岳同窓会80周年記念誌に「当時は“夜9時までの時間点灯制”のもとで、学校では米軍払い下げの発電機による自家発電が行われていた が、バッテリー不足で発電機がとまると、ローソクで授業を続けたり、あるいは、応急処置として、押勇一先生が通勤用の白転車のペダルを自ら漕いでは辛うじ て教室の灯りを守ってくれたこともあった」と当時の模様を伝えている。
*現代版“蛍雪の功”*
更に大浜 方昭さん(1期生)も「学業を続けていく上で私たちが最も悩まされたことは、配電設備が十分でなかったことであります。薄暗い電灯のもとでジッと黒板を見 ていると、反射してくる光線が目にしみ、瞼がはがれて涙がポロポロ出たものです。それで目を冷やしながら授業を続けたものです。それに、非常に停電が多 かった・・・・試験の最中に停電になったことも幾度となくありました。ある生徒はローソクの光で答案を書き、ある者は窓から差し込む月の光で答案をしたた めてた」(「記念誌」)と当時の状況を紹介している。
中国「晋書」の故事にある“蛍雪”は那覇高定時制にあっては“月の光”と“自転車のライト”だったのである。
生徒を悩ませた照明設備が整備されるまでには、10年の歳月が必要だった。3代主事・山城亀延先生(二中22期)の精力的な文教局への要請が功を奏し、全校の配線を一新することが出来たのは昭和38年のことである。
*終戦直後の電力事情*
終戦直後の沖縄の電力事情は、米軍払い下げの発竃機を利用した個人経営者に依存していた。やっと昭和28~29年に至って沖縄配電、松岡配電、中央配電などの小規棋配電会社が各地に設立されるのである。
一方、米軍は昭和28年、牧港に火力発電所を建設し軍部の電力需要を全て賄った上で、余剰電力を民間にも供給すべく、その受け皿機関として「琉球電力公 社」を設立した。そして、琉球電力公社をスルー(経由)した米軍の余剰電力の民間への配電を上記の沖縄配電等の民間企業が担ったのである。
琉球電力公社は電力需要の高まりを受け、昭和40年、金武火力発電所を建設、それを機に米軍に委託していた管理業務を全面的に引取ることになる。
その後、昭和47年の日本復帰に伴い琉球電力公社は解散し、その業務は日本政府および沖縄県が出資する特殊法人「沖縄電力株式会社」が引継ぐことになった。そして、昭和51年、沖縄配電等、民営の配電会社5社を吸収し、発送配電の一貫供給体制がやっと確立するのである。
“金秀グループ60年史”に昭和20年代半ばの電力事情に関する記述があるので紹介する。
「農 機具や鍋や釜などの日用品の製作と並行して、“送電事業”も始めた。畑が耕され農作物が実り、食卓に食物が並ぶと、これからは電気が必要になると彼(創業 者、呉屋秀信氏)は考えた。工場の片隅に20KWの発電機2台を備え、我謝地区をはじめ近隣地区の約300戸に送電した」
*“休講”に激怒する生徒たち*
職場の無理解や劣悪な学習環境など、厳しさに耐え、ひたむきに努力する生徒たちの授業に取組む姿勢は極めて真摯で貪欲であった。
「朝は8時までに職場へ出勤、5時退社とともに学校へ、帰りは10時,11時、それから予習、復習にうつるとどうしても午前2時前後までかかる。したがっ て睡眠時間は4・5時間というのが普通でした。それでもじっくり学習するには時間が足りない。そうかといって他に時間を見出すことも出来ず毎時間の授業を その場で理解するように努める必要があった。だから少なくとも勤労学徒で学を修めんとする者の授業態度は真剣そのものだった。だから先生が休んで休講にで もなると、生徒は激怒したものである」と授業に対する夜学生の姿を大浜方昭さん(前出、1期生)は伝えている。
全日制の生徒ならば“休講”になると快哉を叫ぶのだろうが、逆境の中で懸命に励む勤労学徒にとっては“休講”など、決して許せるものではなかった。
嘉手納先生(前出、二中18期、初代主事)も生徒から“つるしあげ”を食らった経験がある。
「そのころ2年生になっていた1期の生徒に教室に呼び込まれた。何か異様な雰囲気だったので、これは何かあるなと直感した。案の定つるしあげをくらった。 生徒たちの話によると、白分たちはすき腹を抱えて職場からまっすぐに来て、みっちり学習をやろうと思っていたら授業担当の教師が来ないのが多いという。彼 らの示した教師の欠課表によると、1目4時間のうち3時間の休講もざらにあった。生徒は怒りを爆発させて鬱憤を晴らす場がなかったのだろう…。平謝りに謝 ると同時に今後かかる休講がなくなるよう努力することを誓った」。(「記念誌」)
*“ディキヤー”揃いの夜学生*
創立当初は頭の良い生徒が多かったという。彼らがもし脱落せずに4年間通学していたら、おそらく国費合格者が随分出たことだろうと、嘉手納先生は惜しむ。
し かし、現実は苛酷なもので途中脱落していく者が多かった。授業について行けないのではない、ほとんどが家庭の事情や体調を崩した者たちだった。特に体を悪 くするものが目に付いた。先生たちがどんなに気を配り、懸命に助言や相談に応ずるよう努めても脱落していく生徒を喰い止める事はできなかった。
幸地良一先生(前出 那覇高2期、13代校長)も「設立当初の定時制の生徒は、学力や質的面においても、決して全日制に劣るものではなかった。むしろ向学心においては全日制以上のものがあったのではなかろうか」
「1期の知念宗立達(国費・薬学、東大)や2期の宮里正夫君(国費・歯科、東京医科歯科大)等は、実力が充分にあることから定時制4ヵ年を経て後の進学に は1年の時間的無駄があるということで3年の時、全日制へ編入させて国費試験を受けさせる特別扱いした(両名とも現役で合格)」。
「2 期の石川清治君は琉大卒業後、米国留学をし、現在琉球大学教育学部の助教授の職にある。また、2期の名嘉昌高君は国費、農業土木で三重大を、同じく2期の 小橋川悌君は国費、数学で金沢大を卒業、5期の高良有政君も国費に合格、今は沖縄大学の教授をしている」とその実力のほどを賞賛している。(「記念誌」)