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【関東城岳同窓会会報 第9号】 校史探訪 裸電球に賭けた青春[1] ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・

かつて、わが母校、那覇高校にも“定時制課程”があった。戦争や戦後の混乱で勉学の機会を奪われた意欲ある勤労青少年が、失った夢を取り戻-すべく、日々の生活苦と闘いながらも貪欲に勉学に取り組んでいた。以下は草創期の定時制高校の若者たちの奮闘の物語である。

[1]「定時制」那覇高校の誕生

*恵まれない勤労青少年の為に*

「教育の機会均等」の精神に則り、向学心に燃える勤労青少年のために、昭和27年8月28日、琉球政府中央教育委員会は「定時制那覇高等学校」の設立を認可した。校長は阿波根直成那覇高等学校長が兼任し、専任講師1人、非常勤講師11人の陣容でのスタートだった。

第一期生は男子113名、女子27名、合計140名が合格、10月1日、午後6時より入学式が執り行われた。

敗戦から7年、未だ社会は混乱のさなかにあり、生徒の大半は家庭的にも経済的にも恵まれない者が多かった。年齢も大正生まれの30歳代半ばの生徒を筆頭に中学卒業したての生徒にいたるまで様々であり、職業も千差万別であった。

*学校創立は歴史的な年だった*

定時制那覇高騒校の設立した昭和27年は沖縄にとっても歴史的な年であった。

4月に「サンフランシスコ講和条約」と「日米安全保障条約」が発効し、日本に潜在主権を残したままとは言え、沖縄が実質的に日本から切り離された年であ り、同じく4月、これまでの群島政府を統合した「琉球政府」が設立され、立法、行攻、司法の三権が確立した年である。更に、11月には、米軍の強制的な士 地収用の引き金に栓った「軍用地の契約権について」(※)が公布された年である。

(※)米軍が接収した土地の賃貸契約を結ぶため「軍用地の契約権について」を公布したが、使用料の安さから9割以上の地主が拒否したため、翌28年3月に「土地収用令」を公布して軍用地に必要な土地は地主の意思にかかわらず強制収用することが出来るようにしたのである。

昭和27年10月創立した「“定時制”那覇高等学校」は昭和58年4月、定時制の「独立校制度」廃止に伴い「那覇高等学校“定時制課程”」と改組され、以後、昭和55年3月、定時制課程が廃止されるまで那覇高校は「全目制」と「定時制」を併せ持っ高校となったのである。

*問題を抱えた船出*

“定時制”那覇高校は設立当初から大きな問題を抱えての船出であった。入学式を10月1日にという文教局からの指示がそれである。

定時制の初代主事(教頭)の嘉手納宗徳先生(二中18期)は“定時制廃課程記念誌”(以下「記念誌」と記す)に「何事も中途半端ということはいけな い。・・・10月1目に入学し、9月22日に卒業するなんて中途半端の最たるものと言ってよいだろう。このことは主管局の文教局にとっては何等の痛痒も感 ぜず、ただ学校をスタートさせ、それをゴールインさせたというぐらいの、出来た出来たの目出度い程度のことであったろう。しかし、現場の教員や生徒にとっ ては、えらい迷惑なことであった」と当時の心境を吐露している。

就職試験にしろ、大学入試にしろ、すべてが3月卒業を前提に日程が組まれている。9月卒業では、まさに“中途半端”そのものだ。

嘉手納先生は3月卒業を実現させるための策を練ることにした。勿論、生徒たちも3月の卒業を熱望していた。

熟考の末に出した結論は「3年間の夏休みをつぶして授業を行う」というものだった。そうすれば必要な“授業日数”と“単位”を確保する事ができる。
嘉手納先生は早速、教職員の諒解を取り付け、校長の許可も得て、更に文教局の内諾も取って、この計画を実行に移した。

*捨てる神あれば*

しかし、ことは単純には運ばなかった。嘉手納先生の手記は「こうして猛暑にもめげず無理に無理を重ね、やっと1956年(昭和31年)の3月には所定の単位を修得することが出来た。どの生徒も喜びをかみしめて卒業の日を待った」。

「ところが文教局から3月の卒業はまかりならぬとの通達が来た。計画の初期だったらいざ知らず、ここまで来て差し止めるとは何事だとねじ込んだ。これより 先、全日制のある高校が全く同じ条件で開校し2年半で卒業させた例もあったので、これらの資料をひっさげて抗議に行ったが、当局は“文部省の意向”の一点 張りで頑として受け付けなかった。行政分離されている沖縄で“何を”と思ったがどうにもならなかった…」と嘆く。

仕方なく卒業式だけは文教局の指示通り9月に挙行することにした。だが学校当局としては教職員、生徒たちのこれまでの努力に報いるためにも、3月末時点の全課程の単位修得を認め、事実上の卒業としたのである。
働きながら学ぶ勤労学徒達が3年間の夏休みを犠牲にしてまで頑張ったことに対する文教局の対応は冷たいものだった。
当時は行政府も揺藍期であったことが、このような不幸な結末を招くことになったのかもしれない。

しかし、幸いにも本土の私大は単位の修得を認めて受験資格を与えてくれたし、県内の企業も卒業扱いとし採用してくれた。
“捨てる神あれば、拾う神あり”とはこのようなことを言うのだろう。

2期生以降の入学は通常通り4月に変更されたので、「10月入学問題」は1期生限りで解決したのである。

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