同窓会報 第五号 座談会「素晴らしき青春―吾がニ中時代」を語る

城岳同窓会会報 第五号


座談会「素晴らしき青春―吾がニ中時代」を語る
日時:平成14年7月22日 場所:如水会館(東京・神田)

出席者
高田普 次夫(23期) 北村 紀雄(29期) 小宮 永史(29期) 藤井 和雄(31期)
宮平 麗実(31期) 山田 保(32期) 新島 盛昌(33期)
司会
山路 安清(34期)
(敬称略)
司会:本日は皆様にいろいろな角度から二中の良さを存分に語り、そのすばらしさの一端を那覇高校の後輩諸君に語り継いで頂きたいとの思いで、この座談会を企画しました。その趣旨を十分にご理解のうえ、ご懇談下さい。
先ずは,大先輩の高田さんから口火を切って頂きましょうか。
イェーサイ,ヤッチー、当時の二中の位置づけと言いますか、世間ではどう評価されていたか、と言うあたりからお話願います。

高田:
われわれが入学した昭和7年頃には既に二中がすべての面で一中を圧倒しており、二中が県下でトップという評価が定着していました。だから、那覇で育ったわれわれは当然二中に憧れたものです。
二中と一中の地位が逆転したのは昭和4年頃からだと言われて居ますが、その間、学校創立から僅か15年の年月しか要していないのです。
明治43年、首里城址で産声を上げた二中が嘉手納に移転、廃校の危機の中、先輩達の大変な苦労と努力の積み重ねで、この輝かしい栄誉を勝ち取ったのです。


草創期の逸材たち

司会:二中発展の礎を築いた学校草創期の諸先輩を紹介して下さい。

高田:当時の卒業生を見ると後年、各方面で沖縄をリードした逸材がキラ星の如く輩出しているのが分かります。

先ず、第1期卒は大正4年で小那覇全孝さんがおられます。”小那覇ブーテン”のニックネームで有名な方で戦後沖縄の芸能界の基礎を築いておられます。こ の方が居なければ、今日の喜納昌吉も嘉手刈林昌も世に出ていないと言っても過言ではありません。
敗戦直後、生きる事自体が大変な時代に”サンシンなどとは、何事だ”と世間から大いに非難されたらしい。 “何にも無い大変な時代だからこそサンシンを弾いて明るく前向きに生きようではないか”と訴え続けたと言います。大正11年、城岳同窓会設立と同時に初代の城岳同窓会会長と沖縄県歯科医師会長を勤めておられます。

続く第2期卒(大正5年)には高嶺明達さんがおられます。この方は、 二中から陸軍幼年学校、そこで健康を害し東大へ進んだ大変な秀才で、戦前の岸信介を大臣とする軍需省が発足した際、その右腕として総動員局長を勤め、戦後 の混乱期には上京した郷土の学生に物心両面での支援を惜しまなかった方です。沖縄県学徒援護会会長、産業復興公団総裁、日本規格協会(JIS)理事長等を 歴任されました。

第4期卒(大正7年)には”しまかん”と親しまれた島田寛平さんが卒業されておられます。那覇高校創立期の美術教師で那覇高校の校章の製作者でもあり、在職中に”新緑会”を結成し若い美術家を育成した沖縄美術界の指導者です。

第5期卒(大正8年)には戦後琉球民政府主席になった比嘉秀平さん、それに二中出身の医学博士第1号の吉野高善さん(八重山出身)がおられます。

司会:学校創設からわずか9年でこれほどの逸材がおられるとは驚きですね。

高田:もっと凄いのは、卒業生の数です。第1期が38名、2期が14名、3期28名、4期9名、5期 18名という少ない卒業生の中からこのような方々が続出したと言うことです。この大正8年という年は二中が嘉手納から城岳の麓に移転した年ですが、那覇に 来たことで生徒数も増え、以後、一層飛躍を遂げていくのです。

高田:第10期卒(大正13年)には池宮城秀意さん、この方は戦後、「うるま新報」を立ち上げ、後に 「琉球新報」の社長になられた方です。それに国場公憲さん(二中の英語教師)この方の功績は500年以上門外不出だった久米村の歴史的資料”歴代宝案”を 久米村の長老達を説得し公開させた事であります。(異説・沖縄史によれば島袋全発氏となっている)。その他に、大浜 皓さん(名古屋大学教授、哲学)、稲 嶺一郎さん(琉球石油社長)、名渡山愛順さん(画家)と、この年は多士済々です。
この時期に二中が一中を完全に捉え肩を並べた時期だといえます。

次の第11期卒(大正14年)に富名腰尚武さん、この方は早大卒で戦後立法院参議を勤めておられました。
第12期卒(大正15年)は皆さんご存知の瀬長亀次郎さんがおられます、日本共産党幹部会副委員長、沖縄人民党委員長、衆議院議員、那覇市長を歴任した戦後沖縄の左翼運動の中心人物です。

司会:この年に年号が昭和に変わりますが、大正時代の卒業生だけをみても、後年の沖縄の政界、官界、実業界、それに文化、芸術方面のオピニオンリーダーがおられますね。

高田:その通りです。第13期卒(昭和2年)は仲井真元楷さん、沖縄群島議会議員や長く沖縄芸能連盟役員として活躍、会長も勤めました(那覇高10期の現沖縄電力会長仲井真弘多氏の厳父です)。崎浜秀英さん(琉球銀行第三代の頭取)もこの年の卒業です。
第15期卒(昭和4年)では戦後、”沖展”の設立・運営に参画した大嶺政寛画伯と弟の大嶺政敏画伯。次に国場幸輝さん、カミーヤッチーのニックネームで 後輩に親しまれた二中野球全盛時代の指導者であり、戦後は沖縄社会人野球連盟を結成、沖縄野球界の父と慕われた方です。

第17期卒(昭和6年)には山田有勝さんがおられ、二中の名キャッチャーであり、卓球の沖縄チャンピオンで全日本代表レベルの選手でした。終戦直後から 丸ビルで米国人経営の歯科医院で医師とて勤務し当時のGHQの要人を顧客に治療されておられました、現在は今日ご出席の弟の保さんが引き継いでおられま す。実は私はこの山田有勝さんに憧れて二中を目指したのです。本当に格好いい先輩でした。

司会:高田さんが二中に憧れた直接の原因が山田有勝さんのユニホーム姿だったとは始めて知りました。

高田:これから20期卒までの方を駆け足で紹介しましょう。18期卒(昭和7年)には嘉手納宗徳さんがおられます。氏は1700年代の首里、那覇の地図の復元や”球陽”、蔡鐸本”中山世譜”等の著書もあり沖縄の歴史学会に大きな足跡を残された方です。

第19期卒(昭和8年)は立津(玻名城)政順、宮城普勇の秀才がおられました。立津さんは旧制水戸高校に、 宮城さんは旧制福岡高校に進学、二人同時に東大医学部に進学しています。当時は田舎の中学から東大医学部に合格するなど稀有なことだったのです。同期には 沖縄タイムスを創設した上間正諭さんもおられ、この方は作家の火野葦平と入魂(じっこん)で、火野に”辻の遊び”を教えた人だそうです。

第20期卒(昭和9年)は宮里辰彦さん(東大卒、リューボーの創設者)、中今 信さん(東京高師卒、琉球大助教授、演劇評論家、演出家)、国場公徳さん (会社役員)、ひめゆりの塔にまつられている石川義雄さん(一高女教師)という方々がおられます。

司会:高田さん、昭和初期の素晴らしい方々をご紹介いただき有難うございました。
その後,昭和10年代になると関東一円におられる方を展望しただけでも、本日この座談会にご出席下さった皆様に加え、政界では元国務大臣の伊江朝雄氏 (二中25期)をはじめ,法曹界・古波倉正偉氏(30期)、真栄田 哲氏(34期)、医学界・青木秀雄氏(31期),文壇・伊佐千尋氏(33期)と枚挙し 得ない数多くの方々がおられます。

新島:本当に他校の生徒から「二中は眩しいくらい輝いて見られて」おりました。

司会:さて,話は次に移りたいと思います。新島さんの場合はどのような動機で二中を目指したのですか。

甲辰→二中コースは秀才コース

新島:私は当時、上泉に住んでいたのですんでいたのですが、同じ屋敷内に二中先輩の米須兄弟(米須秀 栄・二中27期、秀幸・同29期)がおられ、道を挟んで大城立裕さん(二中29期)、その隣に田場典裕さん(二中25期)、田場典治さん(二中28期)が 住んでおられ、その先輩方の勉強振りに大いに刺激を受けました。特に、田場さんの勉強振りは猛烈なもので、第四高等学校を目指し蛍雪時代の前の受験雑誌で ある”受験旬報”を積み上げた傍らで、ねじり鉢巻姿で頑張っておられる姿に憧れ、二中を目指しました。

ただ、二中に入学したのが太平洋戦争が始まった翌年の昭和17年4月ですから、学園生活も楽しみましたが、時節柄、天久の高射砲陣地や小緑飛行場、嘉手 納飛行場の構築作業に駆り出される毎日でしたし、その上3年足らずの中学生活でしたから欲求不満が残っていると言うのが偽らざる感想でもあります。

山田:当時は勤労動員で勉強どころではなかった。那覇港沖で火災を起こした輸送船が大爆発しその爆風で教室の窓ガラスが割れ黒煙が立ちこめ一瞬空襲かと思いました。

司会:宮平さんのお父様は小学校の校長先生で一中のご出身だとうかがっておりますが、どうして二中を受験されたのですか。お父様は一中進学を勧めなかったのですか。

宮平:私は男6人、女1人の7人兄弟ですが、男は6人とも二中、叔父も従兄弟も二中、おまけに近所に 本日ご出席の北村先輩がおられるという環境で育ったので自然に二中を選んでいました。それに大浜(外間)千代さん(那覇高3期卒、昭和24年)のご家族も 近所に住んでおられ、彼女のお兄さん達も二中生でしたし、私の周囲には二中生ばかりで一中生は一人も居ませんでした。甲辰小学校を出ると二中に行くものだ と決めていたものです。

司会:宮平さん達の入学した昭和15年頃は二中の全盛時代ですよね。

高田:ヤマトゥでは秀才コースは麹町小学校→府立一中→第一高等学校と言われている様に、我々の時代 の那覇では甲辰小学校→二中、天妃小学校→二中、那覇尋常小学校→二中というコースが出来上がっていたんだ(笑い)。だから先生に「二中は無理だ」と言わ れた者が一中に行ったものだ。勿論、例外はありましたがね。(全員爆笑)

北村:私も宮平さんと同じく、周囲の環境に順応したと言うところです。兄貴が二中在学(二年上級)、 近所には山城正喜さん、西銘順冶、登さん兄弟、外間政太郎、政彰さん兄弟、錚々たる方々が居られ、みな二中生。これら諸先輩にあやかりたいと思って、ごく 自然に二中に進学しました。

新島:憧れと言えば、二中の夏の白い制服には強い憧れがありました。しかし、我々が入学した時はカーキー色の制服になっており、とても残念な思いをしたものです。

山田:従来の制服に対する愛着はあったものの戦争一色の当時ではカーキー色の制服に反対するような、そんな大それたことを考えるような者は一人も居ませんでした。

ホロ苦かった初恋の味

司会:ところで小宮さんは八重山のご出身でどうして二中を選んだのですか。

小宮:当時、八重山の石垣市には小学校が2校ありまして、私が受験した年、二中に合格したのは夫々の 学校から各2名の4名でした。私が二中を選んだのは、特に理由があったわけではありません。先生に勧められたから何となくというところです。正直、二中の 良さを知ったのは入学してからでした。(笑い)

司会:何か二中時代の想い出をご披露していただけませんか。

小宮:私は二中時代下宿を5~6回替わりました。その中でも一番強烈な思い出は、 4年の時、ヤマトゥンチューバーカー(大和人墓)の近くで昭和女学校の英語の先生をしていた大城つる先生(若くして医学博士のご主人に死別されていた)の お宅に下宿していた頃のことです。実は、先生のお嬢さんと将来を約束するまでになったのですが、私が進学に失敗して八重山に帰らざるを得なくなり、一方、 彼女の方は日大に合格、上京してしまいました。これで私の初恋物語もあえなくTHE ENDとなってしまったと言う、ほろ苦い想い出があります。

司会:藤井さんの場合は二中に入学した動機はどういうことでしたか。

藤井:私の場合も皆さんと一緒で憧れというより、そうすることが当然だと受け止めていました。ただ、私達の場合は1年前から学科試験がなくなり、内申書だけとなったので、受験対策の立てようがなく、これはえらい事になったと気を揉んだものです。

司会:北村さんにお聞きしたいのですが、その当時、全県下を対象にした「模擬試験」が実施されていたと聞いた事があるのですが、どのような狙いで行われたのですか。

北村:どのような意図があったのか、私には良く分かりませんが、一中、二中、三中の学生が対象で私も 受験しました。成績上位5名が発表されたのですが、その構成が一中2名、二中2名,三中が1名で、不思議な事に私もその中に入っていました。後に静岡高校 に行った2期先輩の外間政彰さん(当時は浪人中)に「ノリヲ、お前は遊んでばかりいると思ったのに実力があるのだな」と褒められ恐縮した事を覚えていま す。

高田:私達が模試を受けた昭和11年の頃は一中と二中だけだったと思います。その時は成績上位10名 の内、二中が7~8名占めていたのですがトップは一中生で、後に軍神と称えられた与那国出身の大桝大尉だったと記憶しています。ただ、残念なのは、我々 23期のナンバーワン・ウルトラ秀才の安仁屋賢精君(元福岡高等裁判事・在福岡)は四年終了で七高に進学していたため、その時の模試に受験していなかった ことです。

先輩・後輩の太い繋がり

藤井:模擬試験と同じく進学にかかわる話をしたい。今では希薄に成っているようですが、我々の頃は” 先輩・後輩の繋がり”には濃密なものがあった。夏休み前になると陸士や海兵、或いは七高や五高、早稲田などの先輩が学校に来て、自分の学校の話をしてくれ る。3年生以上の進学希望者を講堂に集め、先輩が夫々の学校に就いてのPRと自身の体験談を披露すると言う趣向で、そこには、まさに先輩から後輩への太い 縦の流れがありました。

高田:我々の頃もあった。帰省した東京学生会の先輩達が隊伍を組んで各中学で話をされていた。旧制高 等学校の学生は格好良かった。軍国主義華やかな時代とて、中には戦争の話を聞きたがる連中の居るところで、宮里辰彦さん(七高→東大)は「軍人なんかには 成らない方が良いな」とか「それぞれのパーソナリティーに合った云々・・・・」とか中学生にとって聞きなれない魅力的なカタカナの単語が飛び出すなど、実 に格好良く見えたものです。

藤井:何時も私が言っている”先輩から後輩への縦の流れ”が当時はあったし、後輩達は先輩の話を聞き、大いに刺激を受けたものだし、自分達も後輩に伝えたものです。

司会:現在の様に進学塾だけが頼りと言うのではなく、必要な情報は先輩達が提供してくれるなど、社会全体で受け止めていたと言う事でしょうか。

高田:自分の志望する学校の先輩に相談の手紙を出すと、親身になって進学指導もしてくれる。先生より もよっぽど頼りになった。今でも鮮明に覚えているのは、吉松軍八先輩(二中20期)が「君達、上級学校へ行くんだったら、国漢、英、数、物理・化学に絞っ て勉強しろ、中学の成績など問題ではない、現に俺は二中では78番だったが一発で台北医専に合格した、通れば良いのだよ云々」と言っておられた事です。

親父は柳田國男のパトロン?

司会:山田先生のお宅はお父様がヤマトゥや沖縄の代表的な文化人と交友がおありで自宅が一種のサロンのようなものだったのではないですか。

山田:親父は世話好きと言うか、特に民芸に関心が高かったようです。柳田國男とか柳宗悦などと交流がありました。柳宗悦全集の中には親父の葉書が載っていますし、いろいろ世話もした様です。
私が一番驚いたのは三越で版画家の棟方志功の個展を親父に付いて見に行ったとき、受付で親父が”沖縄の山田です”と名乗ると、奥から”ああ山田さん”と 言いながら本人が出てきて、ほとんど見えない眼で親父の両手をしっかり握りながら話していたことです。

司会:このような家庭環境と二中とはどのような関係があるのですか。山田さんの年も内申書だけだったのですか。

山田:私のうちは長男、次男、三男から六男のわたしまで全員二中です。検討の余地は全くありませんで した。先程藤井さんがおしゃっていましたが、私の時も内申書だけの選抜でした。入学試験の当日が雨だったので武道場で入試を行ったのですが筆記試験は無 く、腕立て伏せやら、その他体力テストをやらされた記憶があります。当時はトラコーマと言う眼病(伝染性顆粒性結膜炎)の不合格者が多かった。

司会:話題を変えて、かねてから北村さんが主張しておられます”中高一貫教育”についてお話して頂けませんか。

北村:昨年の関東城岳同窓会で那覇高校は中高一貫教育に取り組む方針であると拝聴致しました。その英 断には心から敬意を表したいと思っております。私は、かねがね、中学3年間、高校3年間と人格形成に掛け替えのない重要な時期に教育課程を分断してしまう ことが果たして好適な学制と言えるのか、特に奥行きのある友人関係の構築の観点からみて、このこま切れ修学期間は未成熟なままで友人間の心の絆に終止符を 打ってしまうのではないかと懸念をもって居りました。もとより中高一貫教育の狙いにつき、教育する側(学校当局)としては、基礎教育の徹底とその延長線上 に立った高度の学力・知識の涵養、その結果としての進学率の向上に主眼を置いているものと思います。それはそれとして、学ぶ側としては、このまたと無い六 年間の学窓期間を通じて、幅広い豊かな人間関係作りに専心ししていただきたいと思います。
「友を愛する者は郷土を愛する、郷土を愛する者は国を愛する」。これは私の信条です。
歴史ある沖縄文化を背負った次世代の方々が学制改革を通じて一段と大きく逞しく成長して行かれることに期待を寄せている者は私ばかりではないと思います。

吾が友は秀才揃い

司会:北村さんは甲辰,二中を通じて多くの友人がおられたと思いますが、何かエピソードを紹介して頂けませんか。

北村:私のクラスメートには秀才が多く、特に数学で突出していたのが宮里栄一君(横浜高工から東大建 築)と米須秀幸君(戦死)。宮里君は作図・軌跡に興味を持ち,その解法の手際の良さには数学の又吉先生も舌を巻くほどだった。米須君は代数が得意で、難解 な「最新代数学精義」を3年の頃には完全にこなしていました。順列組合せ、二項定理、確率など中学生の教程の範囲を超えた高等数学の初歩を私は米須君から 手ほどきを受けたものです。

司会:北村さんは柔道をされていたとうかがっておりますが・・・。

北村:私共の二中時代は武道は正課で必修、柔道か剣道の何れかを選択しなければなりませんでした。私は海軍軍人を目指して居りましたので、迷うことなく柔道を選択しました(海軍では柔道が訓育の柱)。

同期生には猛者が多く、新里雅一君,親泊公一君、宮平隆秀君は二中の三羽烏とも言われ、「向うところ敵なし」の状況で、国体の県代表選抜では文句なしの 圧勝でした。伊良波武君、玉那覇恵一君なども、その実力は前記3名に遜色なく、他校の連中の脅威となって居りました。私共ザコ(雑魚)は専ら彼等の稽古台 をつとめさせられ、柔道場の畳にたたきつけられるのが日課の1つでした。

柔道は男同志の肌と肌との触れ合いを介して友人関係を確立する最適の方法であると確信しております。二中時代の切磋琢磨のお陰で海軍時代には黒帯をと り、戦後三段(講道館)を付与されました。柔道を通じて得られた多くの友人は、私の生涯の財産となっております。

相撲の方でも伊良波武君のお手伝いをしました。今でも悪い事をしたと思うのは波之上大会の1月前、稽古中に私の頭が伊良波君の歯に激突、前歯を2本折ってしまったことです。
治療室で喜納先生(アモー)に「稽古もよいが、大事な選手に怪我をさせるとは何事か!」と怒鳴られました。

偉いと思ったのは伊良波君で、平然と治療を受け,その間一言も文句を言わなかったことです。それどころか治療通院中にもかかわらず、波之上の相撲大会で は個人優勝を果たし、当然のことながら、国体にも出場,大活躍しました。まさしく「武士(さむらい)中の武士」といえる存在でした。

司会:その波之上宮奉納相撲大会で昭和18年二中の湧川和夫・宮平隆秀・青木秀雄の三選手が中心になって団体戦・個人戦を制覇しております。相撲の話が出たところで応援団の話に移しましょう。

藤井:我々の頃の応援団長は山口国三さん(29期)で私は彼にリーダー旗の振り方やモーヤーを仕込ま れ、いまだに同期の集まりにはモーヤーをやらされている始末です。試合の後は公園で気勢をあげた後「まちまー町廻い」をしたものでした。あれは五高や七高 の応援を真似していたんでしょうね。

小宮:あの頃は試合に勝っても負けても国三君が出てくると不思議に元気が出たものでした。

北村:先程の伊良波君についてもう少し語らせて下さい。

昭和53年、卒業後25年振りに伊良波君と再会しました。日銀検査役として日銀那覇支店検査のため訪沖した時です、検査の合間を縫って亡父(元沖縄農事 試験場長、米軍艦砲被弾・戦死、島守の塔に合祀)の戦死の跡を尋ねました。その際、伊良波君が職場を3日も休んで、識名、普天間、糸満と広範囲に亘ってマ イカーで一緒に探してくれました。

その時点では、期待した結果は得られませんでしたが、同君の友情には真底頭の下がる思いが致しました。その間の努力の甲斐があって、数年後、比嘉一高君 (二中31期、甲辰小学校の後輩にもあたる)のお陰で、繁多川の遺体埋葬地(繁多川町会事務所前庭)を探りあてることが出来ました。同級生6名が参加して くれた「ヌジャファー」を行いました。沖縄のルシグァーの思い出には尽きぬものがあります。

恩師の想い出

司会:この辺で話題を、「目標!ヤマトヒトバカ(ヤマトゥンチューバーカー=大和人墓)の石垣のメメ(穴、方言のミーミーの直訳)」と号令されたという名物グラー(大城 有)先生をはじめ印象に残っている教師達に移したいと思いますが・・・。

山田:一年生時の担任が中村忠久という歴史の先生で、勉学だけでなく”人生とは何ぞや”等、すべての面で大いに薫陶を受けたものです。

宮平:博物担当の仲宗根善栄先生は学期試験のペーパーテストで全問解答出来なくて,白紙で提出しても、名前を書いて提出すれば、0点でなく25点つけてくれました。

小宮:私共の二中時代の先生方は高潔な指導者揃いだった。志喜屋孝信、山城篤男、比嘉秀平、世礼國 男、阿波根朝松の各先生を始め名物教師が沢山おられ、そのような教育環境が多くの逸材を生むことにつながったものと思います。更に,この城岳の伝統精神が 現在の那覇高校にしっかりと受け継がれ,同窓生の多彩である事を私は誇りに思っているところです。

新島:二中の想い出は一杯ありますが、在籍2年余りだけに古きよき時代の諸先輩のお話が楽しく羨ましく感じられます。

軍人勅諭を全文暗記したつわもの

北村:先生の話が出たところで、宮良(小宮)君関連のエピソードを一つ紹介しましょう。
四年のとき教練の赤嶺先生(アカンミー)から「一週間以内に軍人勅諭を全文暗記して来い」との指示がありました。覚えてくる奴はまず居るまいと前文と忠 節、礼儀の項だけを覚えて授業に臨みました。案の定、覚えきれた者はなくほぼ全員が失格。しかし、ここに居る宮良(小宮)君ただ一人が全文を正確に暗誦し 遂げました。
さすがのアカンミーもそこまでは期待して居なかったのでしょう、宮良君の熱意と頭の良さを口を極めて称賛していました。私は海軍に入ってからも軍人勅諭を全文暗記している人に出会ったことはありませんでした。

司会:皆さんの中には軍人学校に進学された方もおられますが、どう言う動機で受験されたのか。北村さんの場合はどうだったのですか。

北村:私の場合は、海軍の佐久間艇長殉職の記録に感銘を受け,どうしても潜水艦に乗りたいと思って、 海軍兵学校を志望したのですが視力が0.3で駄目、結局は海軍経理学校を選択しました。入校して驚いたのは中学四年修了の”坊や”から3浪の”おじさん” までが混在しており、5歳の年齢差があったことです。訓育の標準は概ね一浪に合わせてあったので身体未成熟の四年修了や五年修了の連中は付いていけず随分 苦労していました。幸い私は二中時代に柔道と「まちまー町廻い」で鍛えてあったので、カッター、陸戦、遠泳など、激しい訓練もそう辛いとは思いませんでし た。

司会:海軍経理学校は難関校でした。

宮平: 昭和18~9年頃は,軍人学校に進学した先輩達が学校に来られ、それぞれ、陸軍幼年学校や陸軍士官学校,海軍兵学校へ行けとハッパをかけていた。先生達も盛んに軍人学校を受験するよう勧めていました。

跡継ぎで助かった命

藤井:私は北村さんと違って、当初、軍人学校ではなかった。ところが偶々,4年の夏に腕試しに受験し た海軍兵学校が、三日目までパスして最後の段階で不合格になってしまい、自分としては五高に行く積りだった。ところが、我々が試験場の体育館から出てくる のを出口で数人の海軍少佐が待ち受けて、「君らは海兵の試験を3次までパスしたのだから学力的にも,体力的にも問題は無い,君らが希望すれば甲飛(甲種飛 行予科練習生―予科練)ならすぐ行ける。取り敢えずこの紙に署名しておきなさい」と言われ、深く考えもせずに名前を書いて渡してしまった。

司会:それでどうなりました。

藤井:その事を全く忘れていたが、9月頃、いきなり「第十三期海軍甲種飛行予科練習生に合格したので 入隊せよ」と言う通知を貰って仰天してしまった。予科練の試験を受けずに合格したのは全国でも珍しいケースだったはずだ。先生にも「お前は五高から九大造 船に行くはずではなかったのか、 馬鹿なヤツだ」と怒られたが、結局、予科練に行く事にした。当時は旧制高等学校の弊衣破帽にも憧れたが軍人学校への憧れも大きかったのです。

司会:甲飛の十三期は戦死者が多かったと聞いているですが、良く生きて復員できましたね。

藤井:私の部隊は海軍航空隊羽田分遣隊で同僚は特攻隊員として飛び立って行ったが、何故か私は特攻隊 に志願しても、最終の選考に洩れていた。後で分かった事だが、当時、私は既に母方の藤井家の養子になっていた。海軍では「戸主単身(一人きりの跡継ぎ)」 は危ない最前線には行かせないと言う決まりがあったらしい。「家」という意識が強い時代だった。お陰で戦死することなく帰還する事が出来たと言うわけで す。

宮平:昭和19年の春頃だったか、阿波根朝松先生に職員室に呼ばれて「どうしてお前は予科練に行かないのか」と怒られた記憶があります。

山田:私は昭和19年4月予科練に合格し特攻要員として秋田訓練基地で終戦を迎えた。

新島:昭和19年の夏、城岳山頂で軍服も顔も油まみれの日本兵が「ああ あの顔で あの声で・・・」と唄う軍歌が哀しく <日本はもう駄目だな!>と感じた。
その翌日、軍国少年だった私は、疎開で九州に旅立つ母と弟妹を見送るため那覇港に行った。出帆の瞬間、母は燃えたぎる愛情で那覇に踏み止まるという私を 船の中に引きずり込んだのである。誠に、異例の話だが、宮崎に着いてから転校手続きを取ったという経験をしました。

“世紀の嵐”は第二校歌?

司会:話が終戦の時期に来ましたので、話題を戦後に移したいと思います。二中出身の皆さんが一抹の寂 しさを感じておられる「校歌」についてです。「一中の校歌はそのまま首里高校の校歌として歌い継がれているので、とても羨ましい。我々にとって校歌はあく までも”楚辺原頭に風清く・・・♪”であって、”世紀の嵐吹きすさみ…♪”を聴いても自分の学校ではないような気がして、さびしい」とおっしゃるヤッチー 達が多いのですが…。

藤井:かねがね思っていた事だが、どうして校歌を変えたのだろうか、真栄田義見先生が作詞したと聞い ているが…。当時の軍政府にでも気を遣ったのだろうか。確かに歌詞の中にある「ペンと剣」では武装解除した当時としては具合悪かったかも知れない。いずれ にしても、校歌を変えた経緯について何の説明も無いのはさびしい。例えば、”楚辺原頭”を第一校歌、”世紀の嵐”を第二校歌にすると言う事は考えられない のだろうか。

高田:昭和22年、那覇高校が天妃小学校跡でスタートを切った時点では再び城岳の麓の二中跡地に戻れ るとは誰にも予想できなかった。だから義見先生が当時の軍政府におもねるとかと言う問題ではなかったと思う。去った6月23日の沖縄戦慰霊の日にグスクダ ケ(城岳)にある”二中健児の塔”で遺族臨席の下に挙行された慰霊祭に山路会長と出席したが、その時、那覇高校の吹奏楽部の後輩達が二中の校歌を演奏して くれた。それを聞いていると涙が出て仕方なかった。伝統は間違い無く受け継がれていると実感すると同時に嬉しい気持ちで一杯になりました。

小宮:那覇高校の校歌もなかなか良い校歌だと思いますよ。

山田:戦後といえば終戦直後の昭和21年、二中の卒業証書がなく沖縄県福岡事務所長発行の薄い紙切れ一枚の卒業証明書で歯科医専を受験した事が懐かしい想い出です。

ホームページの開設で同窓会の活性化を

司会:いろいろ語り尽くせない事がありましょうが、時間も限られておりますのでこの辺で区切りを付けたと思います。締めくくりとして同窓会に関することや那覇高校に対するご意見やご要望などありましたらお願い致します。

小宮:同窓会についてですが、同期の連中に聞くと「同窓会に出席しても知っている人がほとんどいな い、出ても仕様が無いのでこの所、欠席が多くなった」と言う答えが返ってきます。二中最後の35期の人でも72~3歳なっているのだから、那覇高校中心の 同窓会に移行していくのは仕方の無い事だと思う。時の流れだと理解できます。そこでお願いしたいのは、同窓会に出席した二中の高齢者、たとえば80歳以上 の出席者については会場の後輩諸君に紹介するとか、 或いはお祝いの品を贈呈し、一言ご挨拶して戴いたらどうだろうか。本人の励みにもなるだろうし、二中スピリッツを那覇高の後輩に引き継ぐ事にもなるのでは ないだろうか。

司会:大変よいご意見有難うございます。前向きに検討したいと思いますが、ただ一言、申し添えたい事 があります。いま小宮さんから「同窓会に出ても二中の連中が少ないので云々」のご発言がありましたが、那覇高校の後輩は二中の先輩方とのお話合いを望んで おります、ですから是非,積極的に参加されて、かつての「先輩から後輩への縦の流れ」を伝承していただきたいと思います。この流れを受けるかのように沖縄 戦で最も多くの犠牲者を出した私の同期生が今年の関東城岳同窓会に出席したいと沖縄から10名余上京して来ます。

最後に報告したい事があります。同窓会活性化の施策として、長い間の懸案でありました関東城岳同窓会のホームーページを開設することにしました。現在、 重田辰弥さん(那覇高12期卒,昭和34年)と岩崎りり子さん(那覇高21期卒、昭和43年)が中心になって10月オープンを目指して鋭意作業を始めてお ります。

本日は長時間本当に有難う御座いました。


(文責:真栄田 修 那覇高校8期・昭和30年卒業)
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