校史探訪 〜那覇高野球部・創部から夢の甲子園まで〜 (同窓会報第七号)

昭和21年の高校野球
第1回大会の使用球はソフトボール

凄惨な地上戦からわずか1年後の昭和21年9月、第1回全島高等学校野球大会が石川市(現うるま市)で開催された。
参加高校は首里,前原,胡差,糸満、宜野座,知念,外語,石川、田井等(現名護)の9校である。
残念ながら、そこには那覇高の名前はまだない。

戦時中、敵性スポーツとして日本軍部は野球を禁止したが、米軍は戦場にも野球用具を持ち込むゆとりがあった。娯楽のなかった当時、各キャンプ(収容所)では米軍兵士からソフトボール用具を譲り受けて野球をすることが唯一の娯楽であった。

第1回全島高等学校野球大会はこのような状況の下で開催された。ソフトボールの用具、ユニホームはHBT(米軍野戦用軍服)やメリケン袋を仕立て直したものだった。

決勝戦は首里高校が12-11で前原高校を降し第1回大会の優勝校となった。

食糧事情、試合の流れを変える

この大会の優勝候補は速球投手を擁する糸満高校であったが準決勝で敗退する番狂わせとなる。

当時の食糧事情は極端に悪く、遠征チームを食事付きで面倒を見てくれる宿泊施設など全くなかった。

やむを得ず大会主催者(沖縄体育協会、文教局文化部共催)は無理を承知で全試合を1日で消化する方針を打ち出した。

これが糸満高校に不運をもたらす。
組合せの関係で、準決勝までに、他の準決勝進出校より1試合多い3試合を戦う羽目となった。
如何に豪腕投手とは言え1日で3連投するのはあまりに過酷過ぎたのだ。

昭和22年の高校野球
大会運営のため試合時間を制限する

第2回大会の参加校は外語,糸満,石川,文教,首里,田井等(現名護)、中農,知念,宜野座,前原、コザの11校である。
この大会より硬球使用となる。

第1回大会より2チーム増えたため1日での開催が困難となり、準決勝・決勝戦は別の日に行うこととなった。それでも1日目は7試合を消化しなければならない。時間的に相当無理がある。そこで大会本部が考えた苦肉の策が試合時間を1時間30分に制限することであった。
結果は当然のこと先取点を取ったチームが準決勝戦に進出することとなる。

一週間後に行われた準決勝、決勝戦は外語、石川、糸満の3校間で争われ糸満高校が第2回大会の優勝校となった。

<この年那覇高校では>
首里高校那覇分校としてスタートする

昭和22年10月1日、天妃国民学校跡に“首里高校那覇分校”として誕生する。
首里高校より314人、糸満高校より255人、その他の高校より12人、合計581人の生徒でスタートした。

昭和23年の高校野球
那覇高校、派手なデビュー戦

前年の第2回大会から適用された「時間制限野球」に対し強い批判の声があがり、これらの不満を解消すべく今大会(第3回)からは,「地区予選」が導入された。

那覇高野球部が全島高校野球大会に参戦するのは、この第3回大会からである。
南部地区予選で我が那覇高野球部は首里高校チームと対戦する。
試合は4時間25分にも及ぶ記録的な熱戦の末、32対24のスコアで首里高校を降し,南部地区予選の代表決定戦に進出した。しかし、強豪糸満高校に8対0の大差で敗れ全島高校野球中央大会に駒を進めることは出来なかった。

中央大会に進出した各地区代表は南部地区代表糸満高校、中部地区代表石川高校、胡差高校、北部地区代表田井等高校(現名護高校)。第3回中央大会の優勝を制したのは糸満高校である。

決勝戦で糸満高校と対戦した田井等高校の応援団は、はるばる名護から知念まで、徒歩で2日も掛けて応援に掛けつけたという。当時の交通事情の悪さを物語る出来事である。

<この年那覇高校では>
晴れて独立、那覇高校となる

2月「首里高校那覇分校」は独立して「那覇高校」となる。初代校長に真栄田義見先生が任命された。

昭和24年の高校野球
那覇高校、活躍の痕跡見当たらず

第4回大会の南部予選代表校は首里と糸満に決まる。残念ながら那覇高の試合記録は「沖縄高校野球50年史」にも痕跡すら残っていない。
第4回中央大会は前原高校が優勝。

<この年那覇高校では>
懐かしの二中跡地に移転する

7月、沖縄を襲った超大型台風グロリアが知念の軍政府、民政府の建物を吹き飛ばした。
「この校舎は沖縄軍政府・民政府庁舎として使用する。貴校は二中跡地に移転せよ」という一片の通達で那覇高校は天妃校舎を明渡し、同年9月3日、想い出の二中跡地に移転することとなる。米軍兵舎用テント16張の仮校舎でのスタートだった。

創部2年目の那覇高野球部にとっては実り少ない年だったが、新しい校歌と校章が制定された記念すべき年となる。
以来、二中の校歌“楚辺原頭に風清く”を聞く機会が少なくなったのは淋しい。

昭和25年の高校野球
那覇高、第5回大会で念願の初優勝

那 覇高校は南部地区予選を初戦、南部農林を10対0(5回コールド)、2回戦首里を9対2(5回コールド)、決勝は沖縄工を10対6と圧倒的な強さで勝ち進 み、7月1日石川市で行われた第5回中央大会でも強さを遺憾なく発揮し、名護高校を6-0、石川高校を7-4と撃破し念願の初優勝を遂げた。

“那覇高校野球部の黄金時代”の幕開けである。

<この年那覇高校では>
規格型木造瓦葺校舎11棟が完成

沖縄民政府工務部設計の規格型木造瓦葺校舎11棟が3月完成する。
二中跡地にあった米軍226輸送部隊の沖縄人従業員宿舎27棟の立ち退きが完了、運動場を拡張、整備する。

昭和26年の高校野球
那覇高校第1回新人戦を制す

この年、国場幸輝理事長(二中、15期、元二中野球部監督)率いる沖縄野球連盟が中心となり、高校野球のレベルアップを目的に中央大会とは別に、出場を1,2年生に限定した「新人野球大会」を沖縄タイムス社主催、沖縄野球連盟後援のもと新設する事となる。
これに賛同した昭四会(二中15期同期会)から優勝旗が寄贈された。
第1回新人野球大会で那覇高校は石川を8-3、沖工を5-4、決勝戦の糸満高校を9対3で降し二中の先輩達から寄贈された優勝旗を掌中にした。

糸満 000 000 30=3
那覇 005 002 20=9
(8回日没コールド)
一方、全島高校野球中央大会では決勝戦で石川高校に5対6と惜敗、新人戦とのアベック優勝は夢となった。

<この年那覇高校では>
阿波根教頭二代目校長となる

4月、真栄田義見初代校長が那覇地区教育長に転出、阿波根直成教頭が二代目校長に昇格、就任する。

昭和27年の高校野球
高校野球一足先に祖国復帰を果たす

沖縄高校野球界にとってこの年は記念すべき年となる。全国高等学校野球選手権大会東九州大会への特別参加が認められたのだ。
佐伯達夫自伝(注1)によると「昭和27年の春、沖縄野球連盟の国場幸輝理事長が飛田穂洲(すいしゅう、注2)さんを介して陳情、米軍占領下だが非公式に認めるということで東九州大会への参加が実現した」とその経緯が紹介されている。
(注1)佐伯達夫:日本高等学校野球連盟会長、当時は副会長。
(注2)飛田穂洲:生涯を通じて大学野球、中等野球(高校野球)の発展に貢献した。そのため「学生野球の父」とも呼ばれている。早稲田野球部の黄金期を築いた。

“カミーヤッチー”と二中健児に敬愛された大先輩国場幸輝さんの努力が沖縄高校球児の甲子園への道を拓いたのだ。昭和47年、佐藤・ニクソン会談で実現した沖縄の祖国復帰に先駆けること20年前の出来事である。

この年の中央大会で那覇高校は準決勝で首里高校に敗れる。全国高校野球選手権大会東九州予選大会の最初の出場権を獲得したのは石川高校だった。

<この年那覇高校では>
生徒の力で建てたF校舎完成す

戦後沖縄初のブロック造2階建教室(10教室・F校舎)が全生徒の協力により6月竣工する。
また、9月には定時制那覇高等学校の設立が認可、那覇高校と併置された。
全島高等学校陸上競技中央大会で、本校が男女とも優勝する。

28年の高校野球
準優勝・東九州への道なお遠く

全国高校東九州予選への出場権を競う中央大会は7月11日、各地区代表4チーム参加のもと、那覇高校球場で開催。
決勝戦は予想通り那覇高校対石川高校となり、大接戦の末、那覇は石川に逆転され、またも涙を呑むこととなった。

石川 002 000 002=4
那覇 000 210 000=3

大分市民球場で行われた東九州大会で石川高校は別府鶴見丘高校に0-7で敗れる。その後、石川高校ナインは甲子園球場見学に上阪する。

開会式まで滞在することは出来なかったが沖縄タイムス関西支社長の紹介で佐伯高野連副会長に会うことが出来た。

佐 伯達夫自伝によると「全国大会の開幕が数日後に迫っていたころ、私のところへ電話がかかって来た。“東九州大会で敗れた沖縄代表チームがせめて甲子園を見 学したいと言って、その足で大阪へ来ている。大会開幕まで滞在したいのだが旅費が底をついたので開会式を見ずに帰郷するといっている。佐伯さんご存知です か”と。“そうだ、しまった沖縄のことをすっかり忘れていた。”…すぐ沖縄チームの宿舎へ電話をかけた。…“あと2,3日なんだから,それだけの費用くら い僕が払ってもいい。せっかく来たのだから甲子園大会を見て帰っては”と極力勧めた」とある。しかし、石川高校はその好意だけを頂戴して帰郷した。

この事が契機となり、“こりゃ,沖縄をほっといてはいかぬ”と佐伯さんは早速,高野連九州支部に沖縄野球連盟の国場理事長,伊波興光副会長を招き、沖縄の高校野球のレベルアップに就いて話し合った。(沖縄高野連設立前の事である)
その結果,本土の名門高校チームを毎年沖縄へ招聘する事が決ったのである。

<この年那覇高校では>
二中・那覇高の城岳同窓会誕生する

9月、県立第二中学校同窓会と那覇高等学校同窓会が合併し、城岳同窓会が誕生。
野球部以外の体育部も大活躍。1月には全琉高等学校柔道大会で本校チーム優勝、7月には全日本高校バレーボール大会に本校チームが沖縄代表として出場。
10月は日本国民体育大会へ本校陸上部と柔道部が派遣される。

昭和29年の高校野球
那覇高、圧倒的強さで沖縄代表となる

宮崎県営球場で開催される第36回全国高校野球東九州予選大会への出場権をかけた中央大会は名護(北部代表)、前原(中部代表)、那商業(南部第二代表)、那覇(南部代表)の4チームで争われた。

那覇高は南部予選決勝戦で知念高校を27対1の大差で破り、中央大会の準決勝では那覇商を10対1で撃破、その勢いを駆って名護高校との決勝戦も24対0と圧倒的な強さで優勝した。

名護 000 000 000=0
那覇 800 325 15x=24
かくして、東九州予選に出場した那覇高校チームだったが緒戦に優勝候補の大分商業と対戦、10対0(5回コールド)の大差で敗れ実力の差を見せ付けられることとなる。

大会後選手達は佐伯高野連副会長(当時)の招待で憧れの甲子園球場で夏の大会の開会式を見学して帰沖した。

<この年那覇高校では>
城岳同窓会館の建設立案される

城岳同窓会が同窓会館の建設を決議、建設委員会が設置される。
全島高等学校英語弁論大会で優勝する。
全島高等学校陸上競技大会で女子が優勝する。

昭和30年の高校野球
新人戦2度目の優勝を飾る

この夏の中央大会は名護、コザ、沖工、糸満で争われ、コザ高が糸満高を6-3で破り東九州大会への切符を手に入れた。那覇高は南部地区予選で糸満に1A対0で敗れ、中央大会に進めなかった。

しかし、冬に行われた新人野球大会で那覇高は糸満、首里、を連破し、決勝では那覇商業を10-2の大差で破り、2度目の優勝をかざる。

那 覇 102 022 030=10
那覇商 000 001 010=2
この年の3月、関西高校球界の名門育英高校野球部が白山丸で来島、那覇高校球場,糸満高校球場で4試合を行い4戦全勝し沖縄の野球ファンに多大な感銘を与えた。

更に12月には鹿児島商業野球部が佐伯達夫高野連副会長とともに那覇丸で来島、南部地区高校選抜との試合を皮切りに6戦全勝の成績を土産に帰郷した。

<この年那覇高校では>
各運動部足並み揃えての大活躍

全琉高等学校柔道・剣道・卓球大会で全種目揃って優勝、さらに全島高等学校陸上競技大会で女子が2年連続優勝し、本土大会へ出場する。

昭和31年の高校野球
那覇高・沖縄高野連誕生の年に優勝

前年の暮れ来島した佐伯高野連副会長の呼びかけでこの年の2月1日、阿波根直成那覇高校長を初代会長に迎え「沖縄高等学校野球連盟」が発足した。
これで組織の面でも日本高野連とのつながりが整備された。

沖縄高野連設立を機に全島高校野球大会を「第○回全国高校野球沖縄予選」と名称を変更、大会名も復帰を果たした。

沖縄高野連主催の初めての大会で那覇高校はコザ、前原、糸満、那覇商を連破し優勝、東九州大会への切符を手にした。
那覇商 200 001 200=5
那 覇 002 410 00X=7

那覇高ナイン大分のファンを湧かす

東九州大会は各県代表8チームが参加、那覇は中津東高と対戦、3対2で惜敗するも闘志満々の那覇高の健闘は全観衆の賞賛を浴びた。

那 覇 000 001 010=2
中津東 002 000 001=3A
当日の朝日新聞の戦評は「那覇の捨身の攻撃に中津東は全く顔色を失い、辛うじて最終回の相手の失策で勝つという苦戦だった」と那覇高の戦いを称えている。

那覇高ナイン、甲子園への道拓く

東 九州予選後の各県高校との親善試合も終わり帰省準備に忙しい那覇高ナインの鹿児島の宿泊先に突然、大阪から佐伯高野連副会長が訪ねてきた。驚く那覇高関係 者に「聞いたよ、みんな。いい試合だったそうやね。みんな褒めていたよ。実を言うと、僕は迷っていた、再来年第40回大会に特別枠で沖縄を招聘しようか、 どうか・・・。でもきみ達の試合のことを聞いて、僕は決心した。再来年の沖縄の優勝チームを甲子園に招待する。帰ったら後輩達にそのことを伝えなさい」と 熱っぽく語った(市田実著“琉球ボーイズ)。
那覇高の東九州大会での善戦が沖縄球児の甲子園への道を早めることとなった。

那覇高チームは九州各県高校との親善試合でも4戦して2勝1敗1分けの立派な成績を残して帰省した。

<この年那覇高校では>
第1回二中戦没者慰霊祭を挙行する

10月、城岳同窓会が県立二中職員生徒戦没者の第1回慰霊祭を挙行する。
全琉高校学校陸上競技大会で男女総合優勝(男子1位、女子2位)する。

昭和32年の高校野球
無念、那覇高校連続優勝を逸す

第39回全国高校野球沖縄予選大会は14校が参加して、6月8日から那覇高球場で開幕。決勝戦は那覇商と首里高で行われ、那覇商が4-2で首里高を振り切り優勝した。
那覇高は準決勝で那覇商に5対8で敗れ2年連続の東九州大会への夢は消えた。

<この年那覇高校では>
創立10周年記念事業で球場建設

昭 和29、31年と全島野球大会で優勝し、東九州大会へ沖縄代表として出場する頃から城岳同窓会の野球関係者の間で「良い施設があれば・・・」ということが 議論されるようになる。当時の阿波根直成校長(沖縄高体連会長、沖縄高野連会長)も人後に落ちぬ野球好きとあって構想は次第に広がりを見せバックネットや ダッグアウト、スコアボードなどの本格的な設備とともに大スタンドの構築へと構想は発展したのである。

昭和32年4月、阿波根校長の後任として首里高校から着任した富原守義校長もその趣旨に賛同し建設計画は実行に移されることとなった。

「三 塁側大スタンドは運動場の斜面にあるヤマトゥンチューバーカー(墓地)とその隣接民有地を取得して建設する計画であった。ところが、実際に土地の譲渡交渉 に当たってみると、地主は那覇市内に代替地がなければ、いくら学校教育のためであっても無条件に譲渡することは出来ないと、譲る気配はなかった」(幸地良 一著、“城岳同窓会50年の足跡”)

篤志家の協力で公式球場が誕生

土地問題で暗礁に乗り上げ、球場建設計画を諦めかけた時、那覇市の大地主である岸本不動産社長の岸本政智氏(元琉大教授)が窮状を聞き協力を申し出た。

「早 速、岸本社長は、所有地の中から便利なところを分割し、無償で代替地を提供してくれたために、隣接地主も喜んで立ち退きし、悩みぬいた土地問題も無事に解 決を見た。岸本氏の潔い行為が引き金となって、その後の寄付金集めも順調に運んだのである」。(“城岳同窓会50年の足跡”)

多くの方々の献身的な協力で昭和32年8月第一期工事、33年4月第二期工事を総工費94万5千円(B円)かけて着工、両工事とも33年10月完成した。

こうして那覇高校球場は昭和35年アメリカからの援助金22万ドルによって奥武山に県営球場が出来るまで公式球場として沖縄の野球界に大いに貢献したのである。

昭和33年の高校野球
首里高校・憧れの甲子園へ

佐伯高野連副会長が約束した通り甲子園への出場が約束された第40回全国高校野球沖縄予選の決勝は石川高校と首里高校との間で7月7日新装成った那覇高校球場で行われた。

優勝候補の筆頭に挙げられた石川高校は投手の不調から首里に6-0で破れ、初の甲子園への栄誉は首里高校のものとなる。
わが那覇高校は準決勝で石川に4-3と惜敗し、甲子園への望みを絶たれた。

甲子園の第40回大会二日目の第3試合に登場した首里高校は敦賀と対戦、大観衆の応援もむなしく3-0で敗れた。

<この年那覇高校では>
二中健児の塔遺族会が設立

第3回二中戦没者の慰霊祭の日、二中健児の塔遺族会が設立される。
那覇定時制高校が廃校となり、那覇高の定時制課程となる。
全琉高等学校夏季排球・庭球・卓球中央大会で男子籠球と女子卓球が優勝。

昭和34年の高校野球
冬季大会優勝・新人戦は準優勝

この年の那覇高校は夏の甲子園をかけた沖縄予選(6月)は一回戦で敗退するが、新人戦で準優勝(9月)、冬季大会(12月)は決勝でコザを破り優勝した。

那覇 310 070 100=12
コザ 000 000 000= 0

<この年那覇高校では>
50周年記念誌「城岳」を発行

二中・那覇高校創立50周年記念事業として記念誌「城岳」を発行する。
全琉高等学校排球・籠球・卓球中央大会で女子卓球が2年連続の優勝。

昭和35年の高校野球
那覇高校・甲子園の晴れ舞台へ

4月1日、甲子園で開幕する第32回選抜高校野球大会に初の沖縄代表を送る予選リーグは、前年の「冬季大会」準決勝進出校の那覇商、中央高、那覇高、コザ高の4校で1月9日から那覇高校球場で開始された。

那覇高校と那覇商業の決勝戦は1月17日に行われ、延長10回の死闘のすえ、那覇高校が商業高校を組み伏せ晴れの沖縄代表に選ばれた。

那覇商 031 001 000 0=5
那 覇 003 000 200 1=6

北海高校相手に善戦・健闘

甲子園の第32回選抜高校野球大会は4月1日、5万の観衆の見守る中、開会式が始まる。優勝旗返還、大会会長や文部大臣の挨拶の後、那覇高校牧志主将が選手宣誓をした。

桧舞台を踏んだ感激と入場式直後の第一試合にあたった緊張とで那覇の不利が予想されたが、好投手坂本の力投で善戦する。
那覇 000 000 100=1
北海 100 000 30X=4

当日の毎日新聞の戦評は「懸念された上がりもさほどなく、特に坂本のピッチングは体格的にはるかに優る北海の佐藤の上手投げよりもスピードがあり、やや高めの球が多すぎたが、外角低目へ決める速球の切れ味は素晴らしく、シュートも良く効いていた」と褒めている。

沖縄からはるばる甲子園に乗り込んだ小那覇全孝城岳同窓会長を団長とする50人の“大応援団”の懸命の声援も空しく緒戦突破は夢となった。

<この年那覇高校では>
バレーボール全国大会で優勝する

高体連球技大会でバレー男子、卓球女子、剣道団体・個人、体操女子団体が優勝し全国大会へ。第10回全国バレーボール総合選手権大会で優勝する。
学校教育関係法規の改正に伴い、那覇高等学校は琉球政府立那覇高等学校と改められた。

先輩からの遺産

沖縄高校野球の歴史を紐とく時、重要な転換点には必ず城岳の大先輩国場幸輝氏の名がそこにある。

昭和26年「新人戦創設」、昭和27年「東九州大会への参加」、昭和30年「本土名門高校チーム招聘の実現」、昭和31年「沖縄高野連結成」、昭和32年「那覇高球場大スタンドの建設」等々。枚挙に暇がない。

これらの大いなる遺産を先輩から後輩へ、後輩からそのまた後輩へ受け継いで行かなければならない。

(文責:真栄田 修・8期・昭和30年卒)

参考文献
*沖縄県高校野球50年史
(沖縄県高等学校野球連盟、昭和45年)
*佐伯達夫自伝(佐伯達夫著、昭和55年)
*琉球ボーイズ(市田実著、平成18年)
*城岳同窓会50年の足跡(幸地良一著、平成7年)
*城岳(創立88周年記念事業期成会、平成11年)

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