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【関東城岳同窓会会報 第9号】 校史探訪 裸電球に賭けた青春[4] ・・・那覇高等学校“定時制”物語・・・

[4]社会の偏見と闘って

*就職戦線異常あり*

学校側の資料によると、定時制の1期から最終25期までの卒業生の進路状況はその年によって多少の変動はあるものの、おおよそ進学組が20%、就職組は80%となっている。

沖縄の就職環境は、定時制創立以来、常に厳しいものであるにもかかわらず、就職希望者の大半は県内就職を希望しているのが実態である。
先生方にとって“県内の求人企業の確保”は創立当初より最重要課題であった。定時制に対する社会の無理解と企業の偏見は強かったからである。

問題が起きたのは昭和41年。“琉球電電公仕”の採用試験の“要項”が沖縄タイムスと琉球新報の両紙に掲載されたが、その受験資格者の欄に“高校卒業者又は来年3月高校卒業見込みの者、ただし、定時制課程は除く”となっていたのである。

かねてより、定時制課程に対する社会の認識不足や偏見にっいては関係者の間で話題となっていた。
沖 縄で一流の企業であり、しかも公共体である電電公社が、このような偏見を持っことは許されるべきものではない。他の企業や雇用主に与える影響も大きく、定 時制課程卒業者の就職にとって由々しい問題ともなりかねない。この際は電電公社に対して厳重なる抗議を行うべきだということに定時制の主事会(教頭会)の 意見が一致した。

直ちに主事会の代表数名が電電公仕の首脳部に、厳重な抗議を申し入れた。早速公社の最高幹部が非を認め「率直に公仕の 不手際を詫び、直接の責任者を呼び、われわれの面前で陳謝させ、募集要項の定時制課程云々の項を削除の上、各学校に改めて発送する」ということで、この件 は落着した。(第四代主事、宇久田全廣先生、「記念誌」)

定時制の教師たちも勤労学徒と共に社会の偏兄と闘い続けていたのである。

*逆境を乗り越えて*

創立期から、最終の25期までの平均の卒業率は71%だという。
この数値を低いと読むか高いと見るかは評価も分かれることであろう。しかし、昼間8時間の勤務を終え、午後10時頃まで授業を受けたあと、更にクラブ活動や家庭での学習と、わずか4・5時間の睡眠時間にも耐えての71%という数字には頭の下がる思いがする。

全沖縄定時制高校「生活体験発表大会」の最優秀作品に那覇高校定時制から6回も入選者を出している。
第4回大会(昭和37年)は宮里喜隆君、4年「父と日の丸に向かって」、第5回大会は(昭和38年)新城文子さん、1年「若く貧しくとも」、第7回大会 (昭和40年)は同じく新城文子さん、3年「わが道に栄光あれ」、第15回大会(昭和48年)は屋嘉部洋子さん、4年「伸び行く雑草のように」、第17回 大会(昭和50年)は宮里和美さん、2年「苦難のときこそ」、第21回大会(昭稲54年)は郭久男君、4年「日本の学校に転校して」の6篇である。
その中から、第5回大会の新城文子さんの入選作品の抜粋を紹介したい。

*体験記・わが道に栄光あれ*

「3年前、希望と喜びに胸膨らませ、勤労学徒として一歩踏み出した私ですが、その道が想像以上に険しかったことが、この3年の歳月で身をもって知ることができました。

・・・

生まれつき病弱稔私にとって、・・・人に使われるのがこんなにも苦しいものとは考えられなかったのです。

・・・

ある時は、身体全体が痛み、ひきつるような感じがするので登校するのをやめ、自宅へ帰って休もうかと仕度にとりかかったのです。だが私の意志に反して私の足はふるえながらも引きずられるように夜の教室へ向かうのです。私を呼んでいるのは同じ境遇のクラスの仲間達でした。

・・・

1年から学級委員を務めている私は、クラス全員一緒に卒業することを合言葉に、仲間たちと共に頑張ってきました。しかし、2年3年と進むにつれ「学校を辞めたい」、「田舎へ帰りたい」という仲間が出て、遅刻者や長欠者が目立って多くなっていったのです。

・・・

私は給食時間の15分を利用して“なんでも話しましょう”をやり、悩みの実態調査をする一方、友情のプリントを作り、クラスの仲間づくりに努力しました。だが、そんな努力もむなしく、3人の仲間がクラスから去って行ったのです。
私はあせりといらだたしさを通り越して、無力さを感じました。
そんなある日のことです。職場で仕事の 最中にめまいがしてぶっ倒れてしまいました。気が付いた時は、自宅で寝ており14時間も意識不明だったということです。医者は「極度の衰弱だ」と診断し「しばらくは、安静にしてどこにも出ないように」といわれました。
私は遂に来るべきものが来たと思いました。学業と労働の両立が必死になって叫ばれているにも拘らず、その両者を支えているものが崩れ落ちてしまったことを悟ったのです。

・・・

何もかもが灰色に見え、強く生きてゆく希望を失いかけていったのです。
そんな時クラスの仲間4人が授業を休んで見舞いにきてくれたのです。「今ここでへこたれてはいけない」、「もっと身体にあった楽な仕事に切り替えてやり直すのよ」と励まし、別れ際に1通の手紙をおいていきました。
その手紙は、あれほど決意して学校を辞めていった仲間からの便りで「どうして自分は辛くても頑張らなかったか、せめて1時間だけでもみんなと一緒に授業を受けたい」とあり、「今の自分は前よりも一層惨めだ」という一行が私の心を強く打ちました。
甘えてはいけない!我儘は言っておれない!みんな必死なんだ!みんなっらいのだ!ここで挫けることは私を一層みじめなものにするとともに、クラスの仲間を裏切ることになるのだ。
私は白分の幼さを恥じるとともに、仲間の友情にうたれました。

・・・

私のつたない体験を通していえることは、白分で考え白分で生き抜くことは、仲間たちの力が支えていたということです」。(新城文子)

*那覇高等学校“定時制課程”の終焉*

昭和27年10月、沖縄における定時制教育の草分けとして誕生した“定時制”那覇高等学校は昭和33年4月、独立校制度の廃止に伴い那覇高等学校“定時制課程”となった。
そして昭和58年4月、県立高等学校編成整備計画の推進により28年間の歴史を閉じることになったのである。その間、25回の卒業式を挙行し、2,343名の有為な人材を社会に送り出したのである。

一方、スポーツ面での活躍も目覚しい実績を残している。沖縄定時制球技大会において女子卓球部が昭和38年から46年の間に7度の優勝、定時制陸上競技大 会では女子部が昭和45年以来6連勝という金字塔を打ち立てている。その他、赫々たる成果を挙げたクラブは庭球部、バレー部、バスケット部など枚挙に暇が ない。

那覇高等学校“定時制課程”の28年の歴史は文字通り文武両道を極め、栄光に包まれたものであった。

(文責:那高8期、真栄田修)

<参考資料>
「廃課程に伴う“記念誌”」那覇高定時制課程
「城岳同窓会80年」創立80周年記念誌
「城岳・写真が語る88年」88周年記念誌
「城岳同窓会50年の足跡」幸地良一著
「沖縄戦後史」中野好夫・新崎盛暉、岩波
「運玉森の麓から」金秀グループ60年史

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