*「沖縄民政府」の誕生*
米軍政府の申し入れを受け、早速、諮詢会では各収容地区を「市」と位置づけ、その市が行政機構として機能すべく検討を重ねた結果、9月20日と25日に、それぞれ各地区の議員および市長の選挙を行うことを決めました。
選挙を実施するに当たって「婦人参政権」を認めるかどうか、議論となりましたが、時期尚早であるとの反対意見が過半数を占め、見送ることに決めます。
そのことを知ったモードック中佐は強く婦人参政権の実施を求めました。「これは命令ですか」との一委員の質問に、「遺憾ながら、これは命令である」とモードック中佐は譲らなかったと言います。
敗戦からわずか1ヶ月後、沖縄では婦人の参政権が認められたのです。日本に先駆けること3ケ月でした。
米軍政府による統治が1年近くにもなると戦前の市町村区域への移動も急ピッで進み、難民収容所を基礎とする行政機構はその必要性を失いつつありまいた。そこで軍政府は翌21年4月、戦前の市町村長及び有力者の中から新たに市町村長を任命、行政機構の再編成を行ったのです。
米軍政府は諮詢会との間に築かれた信頼関係を礎にして、単なる諮問機関としての諮詢委員会に代わって行政機関としての民政府を設立すべきと考え、昭和21年4月、「沖縄民政府」を設立します。
4月24日、米軍政府は「沖縄民政府」の初代知事に諮詢委員会委員長である志喜屋孝信先生を任命しました。
当時の県民が志喜屋先生の知事就任をどのような感慨を持って受けとめていたかを知る手掛かりとして、当日の「うるま新報」の“知事就任を祝す”と題する島清社長の論説を紹介します。
「琉 球王国が沖縄県と改称され、沖縄世が大和世に変わり、封建制変じて自治制の施行とはなりしも、そは名のみ。政治行政の真相依然として植民地的官僚行政であ り、我々うるま住民は永年植民地的重圧に呻吟し来たりて、敗戦国民として今日の不運を迎えた。・・・講和条約の締結を見るまで米軍からすれば我々は敵国人 たるの立場にある。然るに我々を敵国人視せざるのみならず、今後我々うるま島人より政治行政の総元締めたる知事や副知事を選任されたことは、我々の現在の 地位を除いても尚且つ近世うるま島史上嘗て見ざる最大の快事である。後世の史家は今日のよき日を永久にたたえるであろう」。島氏はそれに続けて、再建の目 的を達成するために何よりも必要なものは、「人の和」であるとし、「この意味に於いて人格者である志喜屋先生が初代うるま島知事に選出されたことは無情の 喜びである」(「沖縄民政府」)と結んでいます。
志喜屋孝信先生の知事就任が如何に当時の沖縄全島民の気持ちを奮い立たせたことか、窺い知ることが出来ましょう。
(文責:那覇高校8期 真栄田 修)
参考文献
「沖縄の証言」上 沖縄タイムス刊
「わたしの戦後秘話」比嘉善雄著
「沖縄教育の灯」新里清篤編著
「沖縄民政府」嘉陽安春著
「鉄の暴風」 沖縄タイムス社刊
「秘録沖縄戦記」山川泰邦著
「沖縄 戦争と平和」太田昌秀著