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母校二中は故あって首里より嘉手納に移ったが生徒が減って廃校寸前にまでなった。大正8年城岳の麓にでて蘇生したのであるが、それ迄に職員生徒の耐えて きた苦難は並大抵のものではなかった由。それらの試練が糧となってやがて昭和初期に始まる文武両道に旺盛なる二中時代を迎えることが出来たのである。 これは全学に漲った敢闘精神の表れであろうが、いつに教育熱心な校長をはじめ優秀な先生方に恵まれたことに負うものであろうと思う。殊にライオン校長志 喜屋孝信先生の薫陶は筆舌に尽くしがたい。当時を偲んでエピソードの2,3をご披露しよう。 ① 志喜屋校長は大和の学校に比べて不利な点、例えば沖縄で見聞きできない事柄を紹介するに細かい神経をつかっておられた。時には学業に直接関係なくとも浪曲 師を招いて唸らせる等。当時沖縄の一般家庭ではまだラジオもなかったので興味深くきいたものだ。 ② ニ中の応援歌“スヤスヤククリット”は昭和4年頃であったか満州浪人が来て講堂で口伝てで習った歌だ。まぬけた満人の仕草をやってみせる芸人であった。教護連盟の監視で映画もみせなかったのに変ったものをみせるものだと思った。 ③ 憲政の神様尾崎行雄が女人禁制の講堂にお嬢さんをつれて現れたときには驚いた。その上この女性は真赤な服を全身にまとい、目も眩む厚化粧をして東京の文明 人とはこんなものだと誇示して田舎者をおどろかしているようにみえた。ぽかんとみとれるばかりで何のお話をして下さったのか全くおぼえていない。その他、 東恩納寛惇先生、救世軍の山室軍平、元陸軍大臣荒木貞夫の六師団長時代のお話等沢山の刺激があった。 話かわって昭和10年二中創立25周年記念行事は志喜屋校長最後のお仕事であった。その中の余興にまつわるお話1つ。 琉球新報インターネット更新2000年5月30日付ニュースで見つけた記事であるが二中23期生(高田普次夫君の同期で当時は4年生)の記念行事はムム ヌチハンタを着て旗頭を先頭に市内を練り歩く綱引き行列であった。旗頭に大書された「揚文武」の揮毫は二中英語教師国場公憲の筆とある。新報のこのニュー スは行列を写した今は亡き23期生の遺族から那覇市に寄贈されたアルバム写真を見て65年前の当時を偲び興奮している同期生達の記事である。 因みに国場公憲は二中10期生楚辺校最初の入校組であって書をよくした。小生の実兄で童名がマチーであるので二中での渾名もマチーで通っていた。自分で 黒板に「眞知」と書いて得意になっていたとか。この投稿は兄公憲のことも書くようにいわれていたが予定の字数になったので今回はここで筆をおくこととしま す。 |
同窓会報 第四号『昭和初期の二中点描』 ニ中20期 国場 公徳