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同窓会報 第三号 県立第二中学校の歴史を辿る


県立第二中学校の歴史を辿る

首里城北殿を校舎に呱々の声をあげる
我等が母校二中は明治43年(1910年)、沖縄県立中学校(一中の前身)の分校として首里城北殿(王府時代の迎賓館)で呱々の声をあげた。(第一面の 写真を参照)人材を養成するには一中だけでは足りないと言うのが創立の主な理由だったようだ。
第一回の生徒募集には定員100名に700名もの志願者が押しかけたと言う。分校としてスタートした二中は翌44年正式に沖縄県立第二中学校として独立、弱冠36歳の高良隣徳先生が初代校長に就任した。

英国の名門校イートンに倣い嘉手納へ
首里城で誕生して2年目、教育の地域均等と中部地区の繁栄策として”中頭郡にも中学校を”と訴える県議会の要望を受けて、首里城内から嘉手納へ移転、県下で初めての試みである全寮制を採用した。
”教育の本質は静かな環境の中で勉強するにある。かの英国の名門校イートンもロンドン郊外にあるではないか”と勇躍、嘉手納に移転して行った。
机、椅子、黒板等の荷物は生徒全員で首里城から那覇の港まで運び、そこから中頭の比謝川河口までは山原船で、その先は客馬車で追いついた生徒がまたその 荷物を担ぎ学校までエッチラ、オッチラ運んだそうである。志は高くとも現実は厳しいものであった。

廃校問題持ち上がる
理想に燃えての嘉手納移転であったが、首里、那覇の子弟の経済的理由で中途退学者が相次ぎ、大正3~4年頃には開校時、定員の4~5倍だった応募者も定 員を下回るようになった。加えて、県の財政逼迫と言う背景もあり、時の大味久五郎知事が突如、二中廃校案を発表した。この廃校案の撤廃を求めて高良校長は 知事と衝突、校長を辞任したのである。翌年、廃校案は撤回されたが、1学年の定員は50名に減らされ、同時に名護にあった国頭農学校を二中の併置校とする ことが決定したのである。

廃校の危機は脱したが・・・
一難去ってまた一難。国頭農林との併置に全校生徒の不満が爆発、ストライキに突入するなど大騒ぎとなった。そのとき生徒に多大の影響を与えたのが、後にライオン校長と畏敬された、新進気鋭の数学教師志喜屋孝信先生である。
登校してくる生徒を玄関で待ち受けていた志喜屋先生が「私が手を上げたらストに入れ」と指導したと言うエピソードも伝えられているほど、風雲急を告げるものであった。
幸い廃校問題や農林学校併置問題は無事解決を見るが、その陰には嘘のような逸話が残っている。
廃校問題は政治的に解決するしかないと考えた志喜屋先生は高良前校長に県会議員になるよう説得、前校長もそれを受け入れ出馬、後に県議会議長も務めたと 言う。口説いた志喜屋先生、受けてたった高良校長、両先生の二中に対する限りない愛情と廃校問題、農林併置問題に立ち向う気迫が伝わって来る逸話である。

新天地・憧れの那覇城岳山麓へ
辞任した高良校長の後任に一中から清水駿太郎校長が迎えられ、大正8年那覇への移転が本決まりとなった。当初は移転先の城岳界隈はハブが多いと言うので 反対する父兄もあったらしい。学校予定地の売却をしぶる地主を”将来この地に二中が出来たら、この辺の土地はぐんと上がりますよ”と説き伏せタダで寄付さ せたとも伝えられている。
大正13年(1924年)魚住淳吉校長の後を受けて建学当初から教鞭をとられた志喜屋孝信先生が第四代校長に就任した。

文武両道の黄金時代を迎える
憧れの那覇に移転した二中は昭和3~4年ごろになると、勉学に文化・スポーツに頭角を顕し、他中学を圧倒するようになる。将に校章の理念である”文武両 道”を体現したのである。その頃、郷土詩人の泉国夕照作詞、宮良長包作曲の”楚辺原頭に風清く・・・”の校歌も制定された。
手許に昭和14年6月発行(編集兼発行人真栄田義見-初代那覇高校長-)の”二中通信”なる資料がある。記事の一つにその年の上級学校進学者の氏名が記 載されているが”海軍兵学校”、”陸軍士官学校”、”陸軍幼年学校”、”東京帝国大学”、” 台北帝国大学”、”平壌医学専門学校”等々、現在ではもはや聞くこともない学校名が数多く並んでいる。
この昭和10年代の二中では卒業生140余名に対し進学する生徒は110名強とその率なんと約80%を誇るものであった。しかも、その半数以上が国公立 への進学で軍人、医師、教師への道を競っていたことがこれらの”二中通信”から読み取れる。
二中創立30周年(紀元二千六百年、昭和15年)の記念文集”緑”に5年生の祖慶一郎さんの文章がその当時の意気軒昂たる学内の雰囲気をよく伝えているので、少し長いが引用する。

「全国の県庁所在地にある県立の学校の中で非常に新しい若い我が二中は、あたかも明治維新後、世界の文化に立ち遅れた日本が血のにじみ出るような努力を 重ねて今日見る偉大さをなしとげたように、上級学校入学率に於いても他府県の古き伝統をもつ学校に劣らない、否それ以上の成績を示していることは勉学の良 習をいかに懸命に実行しつつあるかを物語っている・・・」。

野球に、柔道に、陸上に・・・
進学で県下一を誇ったばかりでなくスポーツに於いても我が二中は他校を圧倒した。藤井和雄さん(二中31期)に頂いた資料で野球部の足跡を辿ってみよう。
全国中等野球大会が開催される1年前の大正3年、古豪一中との定期戦では堂々勝利。大正12年には県大会優勝、大正13年、14年 県大会連続優勝。昭和4年、5年にも県大会連続優勝、昭和5年には南九州大会で中津中に8-5で敗れる。昭和12年 県大会優勝、南九州大会では熊本商に4-3で惜敗した。昭和16年 県大会で優勝するも戦時下のため残念ながら全国大会は中止、沖縄県で開催される予定だった南九州大会も当然のことながら中止となった。
赫赫たる戦績は野球、排球、篭球、庭球、卓球、水泳、柔道、相撲、陸上競技、国防競技など多岐に渉っていた。
ただ、空手については殆どの中学校に指導の先生がおられ多くの生徒が巻藁を突いたり、型や組手の鍛錬をしていたのに対抗試合の記録が見当たらない。
空手本来の人格形成と体位向上を主眼とし今日のような「スポーツ空手」としての位置付けがなされていなかった所為であろうか。
野球、柔道、剣道などは創立当時から一中と互角に戦ったが、大正に入るとあらゆる球技や陸上競技と共に県下の覇者となる年が多かった。
昭和10年代に入ると、文武両道の気概が一層高まり、陸軍幼年学校、海軍飛行予科練習生、陸軍士官学校、海軍兵学校などへの進学と相俟って相撲や国防競技なども盛んになった。
中でも、相撲は柔剣道と共に二中の全盛時代を築いた(参考資料・創立55年記念誌)
昭和30年に東京で発行された”美登里”(復刻版)に当銘茂夫さん(25期・昭和14年卒)が「陸上で優勝したのは我々の1年の頃だった。私は病床に あったが、二中優勝のニュースを聞いて残念だったのは、競技を見ることが出来なかった事よりも太鼓と旗を先頭に街廻りに参加できないことだった。この時、 確か、山川文清氏(5年生)が1米80糎の高跳びの新記録を作った。私達が4年の折、二中の野球は嘗てない充実したチームが出来上がっていた。平良投手を 始めとして、本村、与座、瀬良垣と9人中、6名を5年生で占め僅かに二人が4年生と言うチームで沖縄の水準を抜いたすばらしいチームだった」と当時の心境 を投稿されている。

他方、美術面においても、名伯楽比嘉景常先生の薫陶を受けた名渡山愛順画伯(二中10期、大正13年卒)が昭和3年、当時、画家の登竜門として知られた 帝展の洋画部門に県出身者としては始めて入選、昭和14年には大嶺政寛画伯(二中15期、昭和4年卒)が入選、令弟大嶺政敏画伯も東京で活躍した。また、 昭和24年に制定された那覇高校の校章のデザインは那覇高校で長く美術の教師として生徒を指導された島田寛平先生(二中4期、大正7年卒)の作品である。
二中出身者で組織される美術同好会”樹緑会”は今日に至るも沖縄の美術界に多大の影響を与えつづけている。

太平洋戦争と県立第二中学校
沖縄におけるあの過酷な地上戦は当然のことながら二中の生徒達の頭上にも等しく襲い掛かった。しかし、女子師範・一高女の”ひめゆりの搭”、二高女の”白梅の搭”、一中の”健児の搭”に相当するものは幸運にも二中にはない。
伝えられる所によると、二中は南部の高嶺村に配置される予定だったが、ガダルカナル生き残りの配属将校高山大尉が「南へ行くとあぶない、北へ行こう」と 指示、山城篤男校長(5代校長)もそれに呼応し、「いったん家に帰って肉親と別れを惜しんで来い」と帰省させたが、そのころには、首里、那覇のそれぞれの 家族はみんな国頭に疎開していたため、疎開先の国頭に会いに行ってしまった。そのうち米軍の上陸で島が南北に両断されて、戦闘に参加出来ず、そのまま終戦 を迎えた・・・と。

太平洋戦争の終結と共に我等が沖縄県立第二中学校は歴史の彼方に去っていった。


この特集は高田普次夫さん(二中12期)、藤井和雄さん(二中31期)、山路安清さん(二中34期)その他、多くの二中の先輩方からご提供いただいた資料をもとにまとめました。

<参考資料>
「二中通信」 1939年刊
「緑」 1942年刊
「美登里」 1955年刊
「私の戦後史」19..年刊
「城岳」 1998年刊
紙面を借りてお礼申し上げます。
(文責・真栄田 修)

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