[4]戦い済んで…
*散華した学友への想い*
郷土を護るのだと陸士、海兵、予科練等、軍関係の学校に進学した者、姉弟の面倒をみるため、心ならずも疎開した者、多くの二中生が危険を犯してヤマトゥに渡って行った。
戦後生き残った彼らが沖縄戦で戦死した学友に対し持ち続けてきた心の重荷は計り知れないものがある。
彼らの心の叫びをいくつか紹介したい。
七高への進学を希望する父親を振り切って、海兵に行った山下和彦さん(32期)。
「…昭和52年、戦後33年目に、再び沖縄の地を踏んだ。奥武山の二中健児の塔の碑に刻まれた同期生の名前を、ひめゆりの塔の天妃小学校同期の女生徒の名を子供達に教えた。
…国のために一命を捧げようと志望して海兵へ入ったばかりに、沖縄戦に立ち合わず、これまで生き永らえてた。
・・・出来れば今までの知識、経験を生かして余生を、何か沖縄のお役に立てれば、ご恩返しが出来れば、と言うのが、今の私の念願であり、夢である」(「卒業40周年記念誌」より)
昭和19年に予科練(甲種飛行予科練習生)受験のため、沖縄を離れた山田保さん(32期)。
「死を覚悟で甲飛を志願、昭和19年3月、16歳の若さで那覇港を出発した時の心境ははち切れんばかりの“青春の情熱の塊”のように思われた。
そ れ故に、本土の防波堤に癒って沖縄戦に散っていった級友のことを思う僕の精神状態は表現しにくい、複雑な心境で ある。深く頭をたれ級友の冥福を祈って止まない。生き残った僕は真実の生きがいを求めて級友の分まで永く強く生きねばならぬと考えている」(「卒業40周 年言己念言志」より)
石部隊通信隊、暗号申隊に入隊するはずだった又吉稔さん(33期)。
「疎開には内心で抵抗があった。故郷を捨てることになるし、第一、同級生に済まない。だが、8人兄弟の長男の私は親に協力して弟妹の面倒を見なければならない。思い切って大城有(グラー)先生に相談した。
先生は即座に“又吉君、君は疎開したまえ、そのほうが良い”といわれた。
あの温顔が忘れられない。しかし、その後、やはり残るべきではなかったかと言う思いに私はしばしば責められた。
…二中健児隊の最後を知ったときの痛恨と疎開した者の後ろめたさ。いまも心がうずく」(「激動の時代の青春」)
沖縄に残る父親のたっての希望で家族と一緒に疎開した鉢嶺清秀さん(34期)。
「戦後になって“ひめゆりの塔”や“鉄血勤皇隊”等の話が日本中で聞かれるようになるにつけて、故郷を捨て、級友達を残して逃げ出した脱走兵との思いは、いつも頭から離れない。
常時、わが身をさいなむこの想いから、何とかして逃げよう、忘れたいという思いが高じたせいか、沖縄戦の話に耳をふさぎ、沖縄に背を向けるような孤独な人間になった気がする」(「入学50周年記 念誌」“絆”より)
*城岳に還った“二中健児之塔*
昭和33年、沖縄戦で戦死した職員、生徒の霊を慰めようと遺族、二申の旧職員で「二中健児塔建設委員会」が設立された。
建 立場所にっいては、学友達の間では多数の戦死者を出した南部の束辺名にとの声もあったが、遺族の父兄の多くが那覇近郊に住んで居られること、母校生徒が慰 霊行事に参加しやすいこと、それに奥武山は戦没者にとってもスポーツにゆかりの地だった、と言う理由から奥武山が選ばれた。
遺族や二中の先生方のひたむきな情熱によって立てられた奥武山の健児之塔も、復帰記念若夏国体の水泳競披場のスタンド建設のため、塔前の敷地が全部削り取られることになった。
工事のため、塔に亀裂が生じ、いずれ改築しなければとの認識は強かったが、諸々の事情で平成2年の創立80周年の「記念事業」の一つとして取り上げられるまで待たなければならかった。
創立80周年記念事業の計画案で健児之塔を城岳公園内に移設する計画を立て、同窓会の理事会に提案し、全会一致で承認された。勿論、遺族会にも異議はなかった。
しかし、城岳公園の所有者の那覇市からは「公園法の関係で敷地内に慰霊塔を建設することは出来ない」との返事がきた。
那覇市との交渉は難行を極めたが、二中出身の当時の那覇市議、大田朝美氏等の献身的漆働きで、平成2年10月に承認を取り付けることに成功した。
早速、工事に取り掛かり、平成2年12月には竣工、平成3年1月14目に塔の除幕式ならびに開眼法要式を厳粛のうちにも盛大に行った。
戦没者氏名も再調査の上、19柱が追記され、職員9柱、生徒185柱、計194柱の氏名が碑面に刻まれている。
沖縄戦で散った若き英霊達も朝な夕な眼下の母校を眺めながら、心安らかに母校の発展を見守り続りてくれることだろう。
毎年6月23目の 「慰霊の日」には城岳公園内の「二中健児之塔」では慰霊祭が執り行われている。
この「校史探訪」の最後は琉球政府編「沖縄戦々闘概況」の中の一節を以って締めくくりとしたい。
「沖縄戦の特色は何と言っても、史上空前の圧倒的鉄量を、沖縄本島に完膚なきまでに叩き込まれ、全島、全く山容をあらため、緑の島は完全に抹殺され、幾多の県民が直接戦闘に参加、その犠牲になったことであった」
「数万の老幼婦女子もまた、この死闘の渦中に巻き込まれて、将兵と運命を共にした」
<参考資料>
「城岳同窓会80年」創立80周年記念誌
「城岳同窓会50年の足跡」幸地良一著
「青春の風紋」二中31期、卒業50周年記念誌
「戦世を生きた二中生」32期、卒業40周年記念誌
「激動の時代の青春」33期、沖縄二中三岳会の記録
「絆」二中34期、入学50周年記念誌
「秘録 沖縄戦記」山川泰邦著
「沖縄戦における 学徒従軍記」琉球政府社会局
「沖縄戦々闘概況」琉球政府厚生局
「恩納村民の戦場物語」その編集委員会
「松本一等兵の沖縄捕虜記」松木謙冶郎著
「沖縄戦記録写真集」、他