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【関東城岳同窓会会報 第8号】 校史探訪 鳴呼・沖縄県立第二中学校“学徒隊”[3]

[3]二中通信隊、南部戦線で散る

*帝国陸軍二等兵、誕生す*

昭和19年12月下旬、32軍の要請で2,3年生を対象にして通信隊要員の選抜試験が行われた。テストの結果120名が合格し、昭和20年1月初旬から「暗号班」、「無線班」、「有線班」に編成されそれぞれ教育を受けることになった。

教育終了後、3月21日、軍から入隊志願書が配られ、父兄の承認印を貰うため、家族の許に帰るよう命令された。

通信隊入隊の承諾書を取りに帰った息子(津嘉山功さん。2年生、摩文仁の山城で戦死)に捺印して送り出した父親(津嘉山朝信さん)の手記が残されている。

「私の長男“功”が“26日には通信隊に入隊することになったから、保護者の承諾書を貰いに来た”と、突然帰宅したのは昭和20年3月24日だったと覚え ています。“功”は未成年の為、自ら直接、軍へ入隊する意志を決定することは許されなかったから保護者の承諾が必要だったのです。

3月 24日はすでに敵の軍艦が沖縄本島の周囲を一重二重に取り囲んでおり、艦砲射撃も始まっておりました。私は、いざと言うときに備えて、村の鍛冶屋に作らせ ておいた鉄製の槍を手入れしていました。そこに息子の突然の帰宅であります。何事が起こったのかと聞くと“鉄血勤皇隊として軍に協力し、入隊したいから親 の同意が必要だ”と言うことである。
私はびっくりして“兎に角、話を聞こう”と座敷に上げて、二人で話し合いました。村の警防団長をしていた私 は、平素から御国へのこ奉公が国民として最高の義務であると教えてきた責任もあり、一方では、このまま親元に引き留めたい気もいたしました。そのような状 況の中で、息子の一途な気持ちを拒むことも気がとがめて、“立派なご奉公を”と一言述べて捺印し、手渡しました。

・・・私は、去っていく息子の後姿を、いつまでも見つめていました」(「恩納村民の戦時物語」中の「摩文仁に散った息子」より)

父兄の承諾書を持ち帰った学徒達は3月26日、正式に「通信隊員」として第六十二師団(石部隊)通信隊のそれぞれの中隊に入隊した。

師団通信隊「無線中隊」に45名、「有線申隊」に40名、「暗号中隊」に35名が配属された。

数日後、軍服一式と九九式歩兵銃と手榴弾を渡された。
折角の軍服も14,15歳の少年兵にはダブダブだった。しかし、星一つの襟章は、帝国陸軍二等兵になった誇りのようなものを感じさせるものだった。

*斬込突撃で壌滅した「無線中隊」*

石部隊通信隊「無線中隊」に入隊した45名は3~4名ごとに分けられ各分隊に配属され、携帯用無線機による送受信、手廻発電機の操作、塹壕掘り、糧秣受領その他雑役の任務についた。

5月初旬、敵の攻勢が激しさを増す中、無線中隊から学徒兵数名が戦闘員として浦添方面の最前線に派遣された。この戦闘で多数の戦死者を出したのである。

5月下旬、首里戦線の攻防もわが軍に不利となり、第六十二師団司令部にも首里を明け渡し、南部への撤退命令が出た。無線中隊も分散して喜屋武村の山城を目指して雨と泥濘の申を出発した。

当時、敵弾で負傷していた諸見里安弘さん(3年生)はこの撤退の様子を「中隊長は“これから南部山城に向かって撤退する。歩けるなら付いて来い。歩けなけ れば自決しろ”と手榴弾一個を渡された。その他には、靴下一杯の米と、二袋の乾パン。取り残される恐怖と孤独感が心をよぎった」(33期の記念誌「激動の 時代の青春」より)

退却の経路は、識名→津嘉山→東風平→具志頭→與座→真壁→摩文仁→山城。

山城に後退してからは、通信機材が損失し機能を失したので、隊員は白然壕や岩陰等を利用して戦闘を続けた。

6月22目頃、「斬込隊」を編成することになり、学徒隊もこれに参加、擲弾筒、手榴弾を持って肉薄戦に参戦、無線中隊隊の殆どが戦死した。
夕方、生存者が壕に集結、最後の斬り込みを敢行すべく準備中に敵の爆雷攻撃と火炎放射攻撃にあい、約100名の隊員中、生存者はわずかに5~6名であった。

凄惨な戦場を奇跡的に生き延びた佐敷興勇さん(2年生)は34期の記念誌に次のような文章を寄せている。「生き残ったと言うより、死に損なったと言う方が適切であろう。全く地獄の底を這いずり廻る様な戦争体験は筆舌に尽くし難い」ものだったと。

*敵戦車に肉弾攻撃した「有線中隊」*

40名の有線班は3月26日、第六十二師団通信隊「有線中隊」に入隊した。

5月初旬、学徒兵は分隊別に嘉手納方面から進攻する米軍撃退の任を受けた独立歩兵22大隊と第24師団(山部隊)の一個大隊に派遣された。

その任務は、同部隊から豊見城にある重砲陣地に有線電話で後方掩護射撃をさせるものである。
最前線の浦添、仲間、前田付近まで進出した時には、すでに米軍の進攻が急で両部隊は相当な被害を受け、学徒兵からも多数の死傷者を出した。

その後、命により分遣隊は再び、師団通信隊に復帰した。

有線中隊も5月末には分隊別に分散して摩文仁の山城に撤退することになる。

退却経路は、首里→津嘉山→豊見城→長堂→高嶺→真壁→伊敷→山城。

6月18目頃、米軍は真壁方面まで進出、わが守備軍はさらに南に後退しながら抵抗を続けた。
学徒兵は全員が急造爆雷を抱えて、敵戦車に対する斬り込みを敢行し山城、伊原、束辺名、小須一帯で殆どが戦死し、有線中隊も全滅したのである。

有線隊で生き残った上原真栄さん(34期)の証言。

「島尻へ退却し、米軍と交戦するようになってからの任務は通信とは無関係の“敵戦車の爆破”と言う危険な任務に変わった。
米軍は午後5時になると、判で押したように、戦車を現場に放置したままキャンプへ引揚げるので、その隙を狙って戦車の下へ潜り込み、爆薬を仕掛ける任務である。
身を艇しての作戦だげにタイミングが悪いと戦車もろともの運命と言う、それこそ命がけの任務で、これで若い命を散らした者も多数いた。
・・・・・・当時のことは悪夢のようで想い出したくもない……」と。(「入学50周年 記念誌」より)

*馬乗り攻撃で全滅した「暗号中隊」*

第六十二師団通信隊、暗号中隊に入隊した35名の任務は電報を作戦室(参謀部)や師団通信、大隊通信への配達、普通電報の解説、その他雑務であった。

5月中旬、浦添戦線が日本軍不利の形勢になったとき学徒隊の一部も戦闘員として突撃に参加する予定だった。
しかし、旅団長の命令で突撃直前に中止となり、喜屋武村山城に退却することになった。

退却経路は、首里→津嘉山→志多伯→小城→米須→山城→束辺名。

6月23目、米軍は束辺名の壕に攻撃を仕掛けてきた。最初、壕の北の入口から敵歩兵部隊の攻撃を受けたので、わが軍は東端の入口から重機、軽機、擲弾筒で応戦した。しかし、戦車に掩護された敵の援軍が到着するや、瞬く間に壕の入口は破壊された。

勢いに乗る敵は入口に殺到し火炎放 射器による攻撃と爆雷による破壊、それにガス弾の発射で壕内は阿鼻叫喚の巷と化し、さながら、生き地獄の惨状となった。
夕暮れにようやく米軍の攻撃は止んだが、壕内のガスの排出が思うに任せず、窒息する者が続出し、累々たる屍体の山が築かれた。

生き残った十数名は北部での再会を誓い、3~4名のグループに別れ国頭への突破を試みたが、殆どが戦死した。

*三階級特進した二中通信兵*

5月12目から27日まで続いた首里攻防戦は凄惨を極めた。この攻防戦には、通信兵として配属された学徒兵も戦闘要員として最前線に駆り出されたのは前述 の通りである。この戦場で一人の勇敢栓少年兵が居たことを、元阪神タイガース監督の松木謙冶郎さんがその著書に紹介しているので、以下に紹介する。

「第六十二師団(石部隊)十二大隊に二中の通信兵が4,5名編入され、すぐに戦車攻撃要員として出動させられた。その中に新垣少年がいた。

戦車攻撃は25センチ角の急造爆雷を持ち、戦車に体当たり攻撃をする、いわば決死隊である。
学徒兵達は次々と戦死していったが この付近の地理に詳しい新垣少年は、豪胆にも、いつも敵戦車を爆破して無事に帰ってきた。

ついに6台目の戦車を破壊したとき、賀谷隊長はこの新垣二等兵の功績を昇格によって表彰した。
下仕官したい意向だったが、下仕官の壬命には陸軍省の許可が要る。大隊長の権限は兵長までだけに止むを得ず、兵長に昇格させた。

部隊長の命令で私は司令部の壕まで、兵長の階級章を受領に出かけた。衣服の支給もあり、この晴れ着に兵長の階級章をっけた新垣少年の顔は、誠に晴れやかであった。
この新垣少年兵長も、この後の戦車攻撃で遂に壮烈な戦死を遂げた。

沖縄戦を通じて、最も忠実であり、最も勇敢に戦ったのは、この学徒隊だった」(「松木一等兵の沖縄捕虜記」より)

琉球政府社会局掩護課調査による「通信兵の戦死状況」(昭和30年調査)

入隊員数   戦死者数
師範勤皇隊     0人      0人
一中通信隊   130人     70人
二中通信隊   123人    113人
三中通信隊    66人     11人

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