[2]二中鉄血勤皇隊、金武に集結
*配属将校「二中鉄血勤皇隊」を救う*
昭和20年2月、守備軍からの要請で4,5年生を中心に「鉄血勤皇隊二中隊」が編成されることとなる。
生徒達の間では、二中の鉄血勤皇隊は戦闘予想地域である南部の高嶺村に配置されることは暗黙の了解事項となっていた。
学徒隊配属に関する守備軍との会議から帰ってきた配属将校の高山代千八中尉(戦後大尉に昇進)は「連隊区司令部の会議で二中の鉄血勤皇隊は北部の宇土部隊への配属が決まった」と山城校長に告げ、至急生徒を金武に集結するよう要請した。
南部の戦閾地域ではなく、北部に決まった経緯を、当時、陣地構築などの勤労動員の責任者だった英語教諭の城間盛善先生が「城岳同窓会80年」に書き残しておられる。
「二中の鉄血勤皇隊は、初め戦闘予想地域である南部の高嶺村に配置される予定だった。しかし、高山中尉は前途ある若者を無為に殺したくない、と思ったので しょう。会議で“二中は校舎が焼けて授業が出来ないので金武国民学校に移動した”と強引に主張、それで急転直下、北部への配属換えになったのである。金武 というのは突飛な話では襟く、“行こうか”と言う話は出ていた。だが断言したからには、急がねばならない。翌目から本格的な輸送が始まったのだっ た。・・・・・・私は勤皇隊に属することになっていたので、3月末に那覇を出発。後を追っかけた。ところが金武国民学校に着いてみると、ここに駐留してい るはずの高山中尉と生徒の姿はどこにも見えなかった」
城間先生の文章は続く「行方の分からなくなった高山中尉一行をやっと探し当てた。 ところが、大尉は私の顔を見るなり“勤皇隊は解散しました”と言う。まさか、解散できるはずがない。私が怪訝そうな顔をすると、その訳を説明してくれた。 “宇土部隊から食料が来ない。腹が減っては戦は出来ませんからね”と。また、“鉄血勤皇隊に必要な入隊承諾書に、親の署名捺印を貰って来い。だが、(米軍 の)上陸間近かだし、もし、戻れなかったら無理に帰ることはない”とも言ったらしい。
つまり彼は食糧難を巧みに利用し、意図的に解散になるよう仕向けたのである。彼は軍の規定に反する事無く、生徒を危険から救ったのだった。二中の鉄血勤皇隊に犠牲が少くないのは、高山中尉のお陰である」(城岳同窓会80年)
昭和20年3月中旬、金武国民学校に集結した二中生は100名とも150名とも言われている。
3月22目、高山中尉は、宇土部隊入隊の為に必要な父兄の承認印を貰うよう、全員を一時帰宅させた。
*二中鉄血勤皇隊、解散の経緯*
しかし、翌目から連日続いた米軍の激しい爆撃で金武国民学校は焼失し、二中学徒からも犠牲者が出た。それは高山中尉にとって大きな衝撃であった。
いまだに中央の軍からは何の指令もない、那覇と金武との交通も途絶えた、大勢の生徒を引き連れて宇土部隊に行くにも食糧がない、近くに部隊があれば隊員を引き連れて入隊も出来るが、近くには部隊もない。
そこで高山中尉は学徒隊員を集め「二中鉄血勤皇隊は一時解散する。追って、連絡があるまで各白白宅で待機せよ」と両親の許に帰るよう命令した。
残ったのは金武出身者と親元に帰れない者、十数名だった。高山中尉は、この十数名の隊員を連れて八重岳の宇土部隊に入隊することを決意した。
3月22目の高山中尉の指示で親の承諾書を貰うべく金武から中部の親元に帰った島田政朝さん(当時3年生)は、米軍の猛爆撃で帰隊できず、やむなく家族と南部へ移動、辛酸を舐めた挙句、捕虜となった。
彼は高山中尉から“米軍は捕虜を殺すことはない”と教えられたお陰で抵抗なく米軍に投降したことを記念誌に述懐している。
「戦陣訓に“生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ”と有るが、配属将校の高山中尉がそっと教えてくれたことがある。“国際法で捕 虜は殺さないことになっているから、沖縄が戦場になり、そういう場面に遭遇しても、鉄血勤皇隊であったことは絶対に言うな。中学生であることで押し通せ。 そのために、陸軍二等兵の階級章の付いた軍服はつけさせないから」と諄々と諭してくれたと言う。
お陰で米軍に投降する際にも「先に教官が教えてくれたことを思い出し、今は生きることを考え、手榴弾、竹やり、部隊編入承諾書など勤皇隊員であると疑われるものはすべて処置していたので、恐怖心は起こらなかった。
・・・・・・僕がゆっくりと手を上げて出て行くから、銃声や変な声が聞こえない限り、心配ないから出て来ていいよ”と言って、辺りを見回しながらゆっくりと出た」(「激動の時代の青春」・33期記念誌)
*ヤンバル山中を地獄の逃避行*
「入隊承諾書」に親の承認印を貰うため一時帰宅した生徒は、その後、空襲の激化で帰隊できず、家族と行動を共にした者、或いは、それぞれ南部の最寄りの部隊に入隊した者が多かった。
一方、親の承諾印を貰い、やっとの思いで金武にたどり着いた途端、高山中尉に“二中勤皇隊は解散したから、各白、家に帰れ”と言われ、困惑した学徒兵も多い。最早、南部の家族の下へ帰ることは出来ない状況になっていたからだ。
そんな経験を持つ末吉発さん(当時4年生)の高山教官に対する見方は厳しいものである。
「承諾書が要るのであれば勤皇隊編成時に提出させるべきものを、米軍の上陸寸前になって生徒を親元へ帰したのは、生徒を出来るだけ戦闘に参加させないための親心だったと言う人もいるが、僕には甚だ迷惑であった。
離島出身の僕は、承諾印を貰いに郷里に帰れるはずもなく、時間つぶしに那覇まで出かけ、戻ってみると金武国民学校には生徒が1人もいない。僕は飯を食う手段を失ったのである。
校庭の桜の実をもぎ取って食べ、校舎の片隅で一夜を過ごした。翌朝近くの人に尋ねると、生徒は本部半島の宇土部隊へ行ったという。急いで後を追い、翌目の朝、伊豆味国民学校に着いた。
歓迎されるのは当然のことと期待していた。
“只今戻りました”と挙手の礼をしたが、高山中尉の態度は挙げた手を下ろすタイミングを狂わすほど冷ややかなものだった。
“何しに来た”と言わんばかりである。もぬけの殻の金武国民学校といい、また、この冷たい目といい、これらのことは、その後の僕の士気を大いに低下さ、また高山中尉に対しても批判的にさせたのである」(「戦世を生きた二中生」・末吉発、32期)
当時、体調を崩し高嶺村の白宅で待機していた金城正夫さん(4年生)は、二中学徒が金武国民学校に集結し、高山中尉の指揮の下、鉄血勤皇隊の編成を進めていることを知り、参加を決心する。その経緯を記念誌に残している。
「早速父に、金武に行って二中の鉄血勤皇隊に参加したいとの決意を伝えて、押しまくるように了解を取り付けて、その日の夕暮れを待って陸軍のトラックで嘉手納まで行った。
・・・・・・金武に着いたのは翌日だった。早速、金武国民学校へ行ってみたら、空襲を受けていて二中生は誰もいない。
部落の人に聞いてみたら、部落はずれの壕にいると言うので、そこへ行ったら高山申尉を中心に5年、4年の指揮班と称して14,5人生徒がいた。
その中にT君、H君の両君を見つけてほっとしたら、それも束の間、高山中尉から“見ても分かるとおり食糧もない。こんな状態では組織的行動をとるのは困難だ。仕方がないから、隊員をそれぞれの親元、郷里へ帰したところだ”言われた。
折角命がけでたどり着いたと言うのに・・・・・・正直言ってそのときは膝が崩れ折れんばかりのショックを受けた。
さらに高山中尉は“君も明日一番で高嶺へ帰れ”といった。T君に事情を聞いてみたら、S君も同様に“親元に帰れ”といわれ、那覇に向かって今日発ったところだ、という。仕方なく南を目指して、金武村を後にした」(「戦世を生きた二中生」・金城正夫、32期)
*南部は既に戦場、再び北部へ*
金武村を後にした金城少年だったが、そのときすでに米軍の上陸が直前で南部への移動は不可能となっていた。
仕方なく、南下の途中で出会った1年後輩のK君と再度北に向かうことにした。
幸いにも名護の知人宅で出会った宇土部隊の将校の斡旋で宇土部隊の学徒兵の1員として編入することになる。与えられた任務は「木炭調達隊の対空監視」だった。
或る日、名護から国頭村与那へ木炭を積みにトラックを走らせていると、羽地村源河部落入口で高山申尉指揮の二中隊一行15人が荷車を押しながら逃避行を続けているのに出会った。
この出会いが契機となり、4月2目、高山中尉以下二中隊一行は八重岳で宇土部隊に編入し、高山中尉を隊長に混成の小隊が編成されることになった。
宇士部隊に編入された学徒兵達は伊豆味の山申で“切り込み”の訓練を受ける日が続く。やがて、「米軍が八重岳に攻め上げて来るというので、二中隊にも黄色火薬が渡され、蛸壺の中で敵戦車の進撃を待っていた。戦車が来たら、黄色火薬を抱いて突っ込めと言うのだ。
いわば肉弾戦だ。全く生きた心地がしなかった。そこを、宇土部隊に掛け合って、我々に引揚げ命令を出してくれたのが、高山中尉だった」(「戦世を生きた二中生」久高村夫・32期)
4月22日,23日の米軍の猛攻を境に八重岳の宇士部隊も崩壊、部隊は多野岳目指して総退却、指揮系統も崩れ、宇士部隊の組織的抵抗はこの日を以って終焉したのである。
*高山中尉、沖縄脱出を決行*
4月上旬、10数名の生徒を引き連れて宇土部隊に編入した高山中尉一行は米軍との戦闘を繰りかえしながらヤンバル山中を2ヶ月近く彷徨する。
その間、敵弾に斃れる者、或いは行方不明になる者、1人、また1人と学徒兵は減り続けた。
4月下旬、宇土部隊崩壊後、高山中尉一行は単独行動を続け、5月末、東村の有銘にたどり着き、そこで二中隊を解散した。残ったのは高山中尉、本村恵常先生に平良朝英少年兵(当時4年生)の3人のみになっていた。
高山中尉は足の傷が悪化したこともあり、沖縄脱出を決意していた。
東村安波の漁師からサバニを借りることに成功した高山中尉は、6月18目深夜、沖縄脱出を決行することにした。
出発直前の午前2時頃、高山教官とのやり取りを平良朝英さん(32期・当時4年生)は記念誌の座談会で次のように語っている。
「出発間際に教官が“平良君、幾っになった”と聞くから、“来月で満17歳になります”と答えた。すると、教官は“まだ16歳か…、そうか・・・”と考え込んでしまった。
しばらくして“どんな非常時でも17歳以下は兵役に就けない。陸軍の将校が16歳の民間人を速れて行くわけには行かない。それに君は沖縄の人だ。ここで頑張りなさい”と目に涙を浮かべながら言われた。
“3人で鹿児島まで行こう”と言っていたのに置き去りにされ、独りぼっちになってどうしようかと不安だった」と。
高山中尉と本村先生は漁師の漕ぐサバニで深夜の暗闇の中を音もなく与論島目指して離れて行った。
1人取り残された平良少年兵は、無人の避難小屋や炭焼き小屋などを転々としながら、日本軍の敗戦も知らず、ヤンバルの山中を乞食同然の逃避行を続け、9月初旬、すでに米軍の支配下になっていた大宜味村謝名城の部落に紛れ込み、捕虜となったのである。
金武で二中鉄血勤皇隊が解散したあと、帰る当てのない離島出身や家族が南部に居たため親元に帰れなかった学徒達にとっては、最寄の軍隊に入隊するか、単独行動をとるか いずれにしても大変な難行を強いられたのである。
ヤンバルの山中を米軍の迫撃砲や艦砲射撃の下、飢餓と恐怖に耐えながら逃げ回らなければならなかった少年兵達の心境を思うとき、胸は強く痛むのである。
しかし、沖縄師範や一中に比べ、二中鉄血勤皇隊(殆どが4,5年生、一部2,3年生)の犠牲が少ないのは、厳然たる事実である。
ガダルカナル島生き残りの高山中尉のいろいろな局面で下した決断は ミクロレベルでは批判や意見もあるが、マクロで見る限り二中鉄血勤皇隊の犠牲を最小限にとどめることに大いに寄与した事はまぎれもない事実なのである。
下記の「鉄血勤皇隊の戦死者の状況」は戦後、琉球政府社会局援護課が1955年(昭和30年)末から十数回に亘り、関係生存者を招致して、「学徒隊の復員処理の為の資料」として調査したものである。
入隊員数 戦死者数
師範勤皇隊 285人 212人
一中勤皇隊 238人 133人
二中勤皇隊 23人 8人
三中勤皇隊 297人 24人
(通信隊は除いたものである)