沖縄への米軍上陸が2ヵ月後に迫った昭和20年1月31日、島田叡(あきら)知事が飛行機で来島した。誰もが断った沖縄県知事就任の打診を即座に応諾し ての赴任であった。周囲が止めるのに対し「俺が行かなんだら、誰かが行かなならんやないか、俺は死にとうないから、誰か行ってくれとはよう言わん」と日本 刀と青酸カリを懐に、死を覚悟の単身赴任であった。
彼は着任するや沖縄守備軍との関係改善に努めると共に、緊急の課題である老幼婦女子 の北部への疎開と県民の食糧確保に取り掛かった。2月下旬、既に制海、制空権とも奪われている中を単身台湾に飛び、3,000石分の米の確保に成功、翌3 月には那覇港と名護港に陸揚げを果たしたのである。
戦況が悪化する中、地下壕を転々としながら、指揮を執る知事は、壕の構築作業にもすすんで参加、また部下が知事の健康を心配して、危険を冒して集めた材料で作った食事にも箸をつけず、片隅で唸っている負傷者や病人に分け与えたという。
知事は5月下旬の沖縄守備軍の首里撤退には最後まで反対の態度を取っていた。南部に退却すればそれだけ戦線が拡大することになり、県民の犠牲も大きくなる と考えたからである。そのためにも戦闘は首里で終息すべきだと判断していた。しかし、守備軍は本土決戦準備の時間稼ぎのため、沖縄を“捨石”に徹底抗戦を 決めたのである。
いよいよ知事及び県職員の南部への撤退が始まる。
5月25目未明、真地の県庁・警察部壕を出発、いくつかの壕を転々とし6月5日頃真壁村の轟の壕にたどり着いた。6月15日夜、知事は幹部職員を召集し、<県活動を停止する>、<職員の自由行動を許可する>、<知事と警察部長は摩文仁の軍指令部に移る>ことを告げた。
翌6月16目摩文仁の軍司令部壕まで知事に同道した県職員が「長官と最後まで行動を共にさせて下さい」と懇願したが、「君達は若い、生きて沖縄再建のために働きなさい」と聞き入れてくれなかった。
6月25日頃、某新聞の支局長が北部脱出を決意し、知事に最後の挨拶に軍医部壕を訪れた際に「知事さんは赴任以来県民のために十分働かれました。文官なん ですから、最後は手を上げて出られても良いのではありませんか」と言葉をかけた。すると島田知事は「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね。 沖縄の人がどれだけ死んでいるか、君も知っているだろう」と厳しく言い切ったと言う。
大田海軍少将による、有名な「沖縄県斯く戦えり」の電文も親交の厚かった島田知事の意を汲んだものと伝えられている。
島田知事の最期の地は、目撃した機関銃隊のY兵長の証言によれば摩文仁の丘から北東へ約3キロの壕でたった一人、ピストルによる自決だったと言う。(享年43才)
まさに司馬遷の史記にある「断じて行えば鬼神もこれを避く」(断而敢行鬼神避之)を好んだ益荒男にふさわしい最期であった。
参考資料
「沖縄の島守一内務官僚かく戦えりー」田村洋三著、他