彼の名前は幸地隆彦君。39歳にして尊い命を失い逝ってから26年。歳月の流れも早いもので級友達も60歳代半ばに差し掛かっている。
想えば昭和35年那覇高校へ入学、クラスの中に背が高く首から上が突き出ている男子生徒がいた。身長181センチの大男、それが彼だった。当時全校で180センチを超える生徒は数える程度であった。
入学早々、各クラブから入部の誘いが相次ぎ野球部を初めバスケットボール部、バレーボール部等から誘いがあり、彼は迷うことなく野球部へ入部、本格的な野球人生の始まりとなった。
昭和35年は那覇高校が第33回選抜高校野球選手権大会に出場した年でもあった。彼のその長身から投げ下ろす球のスピードには非凡なものが見られ、2年の夏からはエースとしてマウンドを預かるようになった。しかし、残念ながら高校での優勝の2文字はなかった。
昭和35年から37年にかけて沖縄県の高校野球は好投手が続出、沖縄高校の右腕安仁屋投手、知念高校の左腕安谷屋投手等素晴らしい投手が活躍した。特に沖 縄高校の安仁屋投手は第44回全国高校野球南九州大会で宮崎県代表の大淀高校を破り実力で甲子園への出場を勝ち取った投手であった。
昭 和38年高校卒業と同時に安仁屋投手は幸地君とともに社会人野球の強豪であった琉球煙草株式会社に入社、一緒にプレーすることとなり何度か優勝も果たし た。安仁屋、幸地の両投手とバッテリーを組んだ宮里捕手の話によると、「幸地君の球の速さは安仁屋君も舌を巻く程威力があったし、ミットを通しての感触は 手がしびれる程だった」と当時のことを話してくれた。
安仁屋君がプロ野球球団の広島東洋カープからスカウトされプロの道へと進んで巨人キラーといわれるほど活躍した。幸地君は安仁屋投手の抜けた穴を埋めるべく一層、練習を重ねマウンドを守りその役目を果たした。
安仁屋君のプロ転向後、幸地君の球威があるプロ球団の目にとまり入団の打診があったが、当時、彼は肩を壊していた為、プロへの夢はかなえられなかった。
昭和47年沖縄県は日本復帰が決まり琉球煙草株式会社は日本煙草専売公社へ吸収され、幸地君はこれを機に同社を退職、本土企業へ転職し、その後音信は途絶 えてしまった。ところが昭和57年5月に突然悲しい知らせが届いた。それは商店会の野球の試合中にピッチャーマウンド上で心臓発作を起こし帰らぬ人となっ たということだった。青春時代を野球に打ち込み野球を愛し最後はマウンド上で散って逝った、まさにこのような逝き方は彼にとって本望ではなかったかとも思 える。生涯を野球とともに歩んだ級友幸地君を偲んで(享年39歳)。