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同窓会報 第二号『私のニ中時代(遺稿)』 ニ中28期 丹下 勲

城岳同窓会会報 第二号


私の二中時代(遺稿・第2号)

ニ中28期 丹下 勲

 私が二中にいたのは昭和12年4月から17年3月までの5年間である。
我が国は昭和の始め頃から軍隊を中国の東北部や上海付近に駐留させていたが、中国軍隊や私兵などとの摩擦がおこり、それが満州事変や上海事変となって いった。12年7月には、北京の南西部にある盧溝橋付近でおこった、日、中両軍隊の衝突が本格的な日中事変(当時は日支事変)に拡大した。事変は次第に拡 大、内陸部に及び、13年7月には南京が、日本軍によって占領されるようになった。
その頃、作家の火野葦平氏は従軍記者として、徐序州作戦従軍し、その体験に基づいて「麦と兵隊」という作品を発表した。又、それと共に歌が作られた。それらは当時のベストセラーとなった。
その後の中国戦線は次第に膠着状態になり、あまり進展はせず、「日本軍はただ、点と線を占領しているに過ぎない」、などといわれ、伸びきった補給路を維持するのに大変苦労したようである。
15年9月には日、独、伊三国軍事同盟が締結され、英、米、仏などの諸国との対立が鮮明になってきた。それにともない、日本軍は16年7月には、仏領イ ンドシナ(ベトナム)に進駐し、さらに、マレー半島(当時英領)にも軍隊を上陸させた。このようにして、次第に南方に勢力を拡張していった。
16年12月8日には日本海軍の航空部隊が、ハワイの真珠湾に停泊中の米海軍太平洋艦隊を奇襲攻撃し手、多大の損害を与えた。これで日米は戦争状態に入った。
さらにマレー沖では英戦艦プリンスオブウェールズとレパルスを我が国の航空部隊が奇襲し撃沈するという、戦果をあげた。
このように私の二中時代は、戦争に終始していたが,ほとんどが勝ち戦であり,ノモンハン事件のような,負け戦の詳細は報道されなかった。勤労奉仕という 畑の耕うん作業も,いたってノンキな仕事であった。当時はまだ物資が豊富であまり不自由を感ずる事はなかっただろう。今も昔も,中学生のやることは,あま り差がなくほとんど同じで,よく遊び,いくらか勉強した、と言うところであろう。ただ、17年3月の卒業が近くなると、味噌、醤油、油の配給制度の実施に なり次第に不自由になったようだ。
のびのびと楽しい中学時代を過ごせたのは幸せであった。しかし、共に青春時代を謳歌した多くの友は、今はない。

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