[3]定時制ならではの学園風景
*シンメーナービと薪(タムン)*
定時制高校にとって重要な設備のひとつに給食室がある。しかし、創立当初の給食室はまことに粗末なものであった。
学校創立と共に20数年間、調理員として生徒の空腹を満たしてくれた小波津晃子さんは「給食準備室はバラック建でしたので床は土間でした。雨が降ると外か ら水が面水浸しになるのでソーメン箱を並べて、その上を歩き回り仕事をしたものです。炊事の時の排水も人間の身長ほどもある深い穴を掘って、そこに一時た め、毎目生徒の当番を決めて、放課後この穴からくみ上げ準備室の後ろにある土手の木の根にかけた」ものだと記念誌編集委員のインタビューに答えている。
小波津さんの話では当時の調理器具は“シンメーナービ”(※)が1個あるだけだったという。料理は全てシンメーナービで作らなければならず、しかも、重油もなければ、勿論ガスも栓い、薪(タムン)が唯一の火力である。小波津さんの苦労は大変なものであったろう。
(※)シンメーナービとは直径1m程度の大鍋のことで、以前は一般の家庭にもあった。芋を常食にしていたころには、一度に一日分の芋を煮るなどに用いたものである。
料理の材料は全て米軍からの配給物資の“メリケン粉、油、とうもろこし、ミルク、砕米、砕麦(ビール製造時の副産物)など”である。
当時の人気メニユーの一つは“そば汁”。これはメリケン粉をそば屋に持込み、そばを作ってもらい、そのそばにカマボコとうす揚げ少々を入れたもの。
二つ目は“団子汁”。メリケン粉、ミルク、とうもろこしの粉で作った団子に野菜を入れ味噌で調理したもの。
三つ目が破砕米と砕麦と野菜を少しいれた“やふぁらージューシー”だった。
その中でも“そば汁”は生徒たちに最も喜ばれたメニューだった。
戦後、何もない時だったので、職員も生徒達もみな喜んで食べてくれ、給食が残るようなことはなかった、と小波津さんは懐かしがる。
*時には“箸”の使い回しも*
水にまつわる苦労話も多い。汚水の汲み出し、雨漏り時の下拵え、濡れた薪での煮炊き等々、数えればきりがない。中でも、たびたび断水を引き起こす簡易水道には大いに苦しめられた。
断水のときの食器洗いは生徒を動員してヒージャー川(樋川)まで行って洗う。生徒の中には、早く帰りたい一心から家に持ち帰って洗ってくると、クラス中の 箸を持ち帰ったものの、翌日、忘れることも度々あった。そんな時は「クラスの給食は数少ない箸を使い回したものです」と言う小波津さん。
前近代的な給食室の改築は山城亀延先生(前出、二中22期、第3代主事)の赴任(昭和36年)まで待つことになる。創立からすでに10年近く経過していた。
「改築前の給食室は狭く、雨漏りし、しかも排水や排水槽が校外より低いために、毎目定時制の生徒が、当番で居残り、汲み出す状況であった。職員生徒共にこ の汲出しには大変苦労したものである。立派な給食室が完成した時、当時の生徒会役員が揃ってお礼に主事室に来た時は大変うれしかった」。(山城亀延先生、 「記念誌」)
給食室の改築は実現したものの調理器具までは予算が回らず、依然貧弱なままだった。“土と煉瓦のかまどから“回転釜”に、 また、流し、調理台、食器洗浄器などが一新され、衛生的な調理室になるのは、さらに7年後(昭和43年)の村田実保先生(第5代主事)の在職時にやっと実 現するのである。
*新米教師とオッサン生徒*
前出の幸地良一先生(那覇高2期、琉大1期、後の13代校長)が大学卒業の翌昭和29年2番目の赴任校として“定時制”那覇高校に着任した第1日目の出来事は印象的である。
「確か40名中、女生徒が5名で残りが男子生徒ばかりのクラスであった。しかも驚いたことには、男子生徒の過半数が髭づらのオッサンに見え、まるで大学の教室にでも行った感じであった」。(「記念誌」)
いきなり、並み居るひげ面生徒の強い視線の洗礼を受けるという、予期せぬ展開に先生の頭の中は真っ白、あらかじめ考えていた挨拶など雲散霧消してしまい、ただ茫然と立ち尽くしてしまった。
その時である“先生、早く授業を!”と最前列に座っている一段と視線の鋭いひげ面の男が叫んだ。その叫び声に先生思わず“はい”と素頓狂な声を出したからたまらない、教室は大爆笑と拍手の渦となった。
先生は必死に形勢を建て直し、臍下丹田にカを入れて“静かに!”と大声で生徒たちを制止し、以下のような就任の挨拶をした。
「諸君の中には僕より年配の者がかなりいると思う。これら先輩に対しては、学校外では先輩として敬意を表し敬語で応対しよう。しかし、教室内では等しく生 徒であり、年齢により言葉を使い分けて授業する訳にはいかん。僕が教師であり諸君が生徒であるという関係においては、敬語を略し、全て命令口調で行く」。 (「記念誌」)
この一風変わった就任の挨拶で教室は静かになり先生は窮地を脱したのである。
あとで分かったことだが、先生より年上の生徒が7名、なかには7歳年上の生徒もいたという。学校草創期のほほえましい逸話である。
*泣く子を残して夜の数室へ*
一方、年配生徒の体験には胸を締め付けられる。前出の我喜屋良喜さん(1期)は、陸軍衛生兵だった、復員後やっと軍作業の職を得ることが出来、結婚して子供にも恵まれた。
家庭の事情で中学に進学できず、通信講座で勉強したいとの思いも、戦争で中断され、軍隊時代には学歴の不足から惨めな思いを味わい尽くした。このような経験を持つ我喜屋さんにとって定時制高校の創設は待ちに待った朗報だった。
しかし、30歳という年齢は重くのしかかる、すでに4人の父親になっていた。希望に燃えて入学したものの現実は厳しいものだった。
夫婦共稼ぎなので、子供たちが病気のときは、看病のため、どうしても登校できないことがしばしば起きる。それが試験と、鉢合わせになる時など、悲惨なもので、時には泣く子を残して登校しなければならなかったという。(「80年記念誌」より)
このエピソードなど“オッサン生徒”の哀歓を語り尽くしている。