*再び起きたストライキとその原因
しかし、学園の平穏は一月と続きませんでした。
6月25日には再び問題が起き ます。夜9時50分頃、二中の寄宿舎に何者かが投石すると言う事件が発生したのです。二中生が農校生だと騒ぎ出したのを舎監が鎮めようと努めますが、激昂 した生徒は納得せず校長宅にまで押しかけたのです。そこで学校は26日、室長17名に退舎を命じ、27目には主謀者と目される9名に無期停学を命じまし た。
9名の無期停学処分を不服とした二中生は彼らが復学するまではと同盟休校を決議し、再びストライキに突入します。これが第二次ストライキ事件の発端でした。
第二次ストライキの直接の原因は投石事件ですが、その背景には「中農分離間題」の継続審議を約束した県当局や県議会がお互い責任の擦り合いをするばかりで、生徒や父兄の要望に真剣に取り組む姿勢が見えなかったからです。
県議会側は「中農併置問題」は元来、県庁が議会に上程したものであり、これに議会が協賛したまでの話で、責任はあくまでも県当局にある。だから、対応策を 県当局が策定し議会に提案すれば、議会はそれに協賛するまでの話だと言い、県当局は「中農併置」は県当局が上程したとはいえ議会が議決した事案であり、県 当局としては、別に分離案を提出する必要は認めない。必要であれば県議会が議案を上程して審議すればよい、と全く平行線をたどります。
一方、鈴木知事は着任早々で事情が良く分らないと言うこともありますが、前任者の施策を掌返すように扱うのには聊か抵抗があり動きづらい云々、と三者三様、お互い面子に拘り、三竦み状態のまま解決の目途が全く立たない事への苛立ちが第二次騒乱事件の本当の原因でした。
8月下旬、校長は父兄に対し「生徒が非を悔改め、今後、学園内の平和を乱さないと約束するなら特に停学処分を解除するから来る9月10日に生徒同伴で登校するよう」通告を出します。
ところが、父兄会は中農分離間題が何の進展もない「現状のままで強いて登校させると将来再び騒乱を起こす可能性がる。善後策がまとまるまで登校を見合わせ ことにする」と登校拒否の回答を学校(校長)に送り、「善後策」の模索に取り掛かります。新聞は「今や二中は父兄のストライキに逢えるの観を呈するに至れ り」(新報9月6日)と揶揄したほどでした。
学校当局は同盟休校で帰静した生徒のうち病気や休学中で騒乱事件に参加しなかった15人を除く198人全員を無期停学処分とし、県当局は二中を臨時休校という名目で閉鎖していました。
*事態収拾についての議論高まる
新報は9月6日 「二中の善後策」と題する社説で、父兄が子弟を説得するどころか、一緒になって分離論を主張する事態に至った今日、いたずらに解決を引き延ばすのは得策で はないと述べ、目先の救済策として先ず校長と教諭を専任にし、寄宿舎を完全に分離し、当分の間は嘉手納での分離運営を提案したあとに 「尤も上述の如き応急手当なるものは一種の彌縫策に過ぎずして単にこれを以て本間題の解決を根本的に円満ならしむることは無諭不可能の事に属すれど、現に 逆境に陥りつつ、且つ永遠に取り返す可からざる多大なる損失を蒙らんとする230余の生徒を救う上より考うれば、たとえ一時的にせよその効果決して小なり と言う可からず」と応急措置の重要性を強調しています。
こうした世論の後押しを受け父兄会の活動も活発になります。1916年(大正5 年)9月17日、奥武山で父兄会主催の有志大会を開催し以下のことを決議します。「将来の分離が前提であるが、応急措置として、校長および教諭を専任とす る、更に寄宿舎を独立して、会計も別にする」という、「妥協案」をまとめ、その足で父兄代表が県庁を訪れ当間題の責任者である島内内務部長に面会を求め、 上記の案を12月の通常県会に上程するよう要請します。内務部長からは「この案で纏めるべく早速、県議会や学校(長)と話し合う」との約束を取り付け、父 兄側は子弟を速やかに登校させることを約束しました。
泥沼状態のストライキ事件もこれで1件落着と安堵し、学校からの連絡を待ったので すが、一向に通知が届きません。原因は父兄の一人が勝手に父兄代表を自称し、校長に面会を求めて、①兼任の校長と教諭を廃止し、専任とする、②寄宿舎を分 離する、の二点を父兄会と県当局で決定したので、しかるべく手続きを願いたい、と申し入れていたことが判明しました。
校長が「私は県当局から未だ何の相談にも預かっていない。これまでの経緯から見て簡単に登校通知を出すことは考えられない」と態度を硬化させたのです。問題解決までになお3週間もの時間を要することになりました。
紆余曲折を経て10月9日、全員停学処分を解かれ6ヶ月に及んだストライキも漸く解決に至りました。
大味知事が去った後、県との関係がギクシャクした寺尾熊三校長はIO月5日依願退職し、10日には帰郷の途につきます。僅か7ヶ月の在職でした。
後任は県の学務課長川部佑吉が校長事務取扱を命じられ、翌1917年(大正6年)4月からは一中教諭清水駿太郎が二中の専任校長となったのでした。
*前校長県議会で完全分離訴える
高良前校長は大正5年6月の県会議員の島尻郡補欠選挙に立侯補して見事当選を果たしますが「その転身が実は志喜屋先生の嘆願と説得が動機だった」と“写真が語る88年”は伝えています。
県会議員となった高良前校長は12月の通常県議会で早速、県当局に質間の矢を放ちます。「当局は大正7年度より中農を分離する意思があるのか」と糾し、返す刀で中農併置の不合難について約50分にわたる演説を行います。
12月5日の新報に掲載された高良議員の発言内容は「中農学校紛擾については当時の県会議長及び議員等も少なからず憂慮し、嘗て議員等は集会をなして善後 策を講ぜしことありと雖も何ら纏らず、新知事赴任後に至りて父兄及び有志の意見を建議せしも遂に不得要領に了れり。果然(予想通り)二度目の紛擾となり 10月9日まで休校の巳むなきに至れり。しかも予は生徒にのみ同情せず、生徒の本分を忘れし者は断固たる処置を執るべきなるも、鈴木知事が中農問題に対す る演説の極めて判然せざりし為、予は私に迷い居るなり。されば茲に所信を述べて判然たる返答を求めたし」と、これまでの県当局、県議会を痛烈に批判し、中 農併置が教育上不合理であることを詳細に説いたのです。
その様子を「流石に多年教育界に携わりし入だけに其の説くところ一々事実を根拠として少しの駄弁を交えず、よく長時間の演説に聴衆を議かしめざりき」と熱弁振りを紹介しています。
*那覇移転案・遂に可決される
5ケ月に亘るストライキも嘉手納における中農分離で一先ず収束しましたが、究極の解決策である完全分離に向けて高良前校長の活動はなお続きます。
先生は「一県の首都でありながら中学校が一校もないとは、決して文化都市とは言えない」と那覇の有力なオピニオンリーダーや主だった県会議員に二中の那覇移転に賛同するよう強力に働きかけます。その一方で生徒とも共同作戦を展開し多数派工作を着々と進めて行ったのです。
事件当時、最上級生で無期停学処分にもなった幸地新松さん(3期)は先生に励まされながら有力者の署名をもらいに奔走したことを創立55周年記念誌に披露しています。
県当局も中農併置の弊害と二中の位置の不適切であることを認め1917年(大正6年)12月の通常県会に「中農分離と二中の那覇移転案」を提出します。結果は15対13の僅差での可決でした。
この「二中那覇移転案」が可決された県議会の議長が高良前校長だったという事実に我々は運命的な感動を覚えずには居れません。
2年後の1919年(大正8年)3月、新校舎の一部落成と同時に念願の那覇市郊外の城岳山麓への移転が実現します。高良隣徳前校長は二中の移転を見届け、 安心したかのように1月後の4月24日、47歳の若さで黄泉の国に旅立たれました。文字通り二中に捧げた生涯だったと言えましょう。