*米軍の対住民政策*
沖縄県民にとって最大の悲劇は、日本軍が非戦闘員である沖縄県民を護るための軍隊ではなく、米軍の日本本土侵攻を食い止め るための軍隊だったと言うことです。非戦闘員の保護対策については、全く無きに等しいものでした。日本軍の対住民政策の欠如が多くの県民を絶望の淵に追い 込みました。特に日本軍を信じ、その軍隊を追って南部に転進した住民は筆舌に尽くせぬ惨劇に遭遇したのです。
昭和20年4月、守備軍司令部が発した命令書には「爾(じ)今(こん)、軍人軍属を問わず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以って談話しある者は間諜と見なし処分する」との条項が含まれていました。
沖縄人が“方言を使うとスパイと見做す”とは、これが果たして友軍なのでしょうか。県民の日本軍に対する不信感は募るばかりでした。
一方米軍は、沖縄を「日本本土攻撃のための最重要拠点」と位置づけ、太平洋区域の精鋭部隊を総動員して沖縄侵攻に備えたのです。
特筆すべきは、これまでの南太平洋の
島 嶼戦(とうしょせん)の経験から、非戦闘員である地元住民が、戦闘遂行上大きな障壁になることを十分認識していた米軍は、戦闘部隊である米第十軍とは別 に、「地元住民の保護と管理」を任務とする「海軍軍政府」を設置し、実働部隊として「軍政要員」を前線に送り込んだことであります。
軍事的な戦略からとはいえ現地住民のための食糧や医薬品を十分に備蓄し、周到な準備のもとに上陸作戦が展開されたことは県民にとって不幸中の幸いであったと言えましょう。
これら軍政要員として派遣された米軍将兵はコロンビア大学やプリンストン大学などで対住民対策要員として特別に養成された専門家であり、加えて、日本語や「ウチナーグチ」に堪能な二世、三世を中心とした将兵で構成されていました。
な かんずく、軍政府の中枢部門には錚々たる学者軍人が揃っていました。初代の政治部長モードック中佐は後のエール大学人類学部長で人類学研究における米国の 第一人者であり、二代目のカードウェル中佐はアーカンソー大学の学長となっています。三代目のワトキンズ少佐はスタンフォード大学教授になり、経済部長の ローレンス少佐はセントジョーンズ大学教授に、さらに文教部長のハンナ少佐は東洋史専攻の文学博士で大学教授になっています。
一例として、沖縄の歴史に造詣が深かったハンナ少佐の足跡を紹介します。
彼は、沖縄の無形文化財の復興と、虚脱状態の収容所の人々の慰安と心の平安を図るという見地から、芸能大会を企画、諮詢会(しじゅんかい)(後出)の又吉康和氏らに芸能関係の生存者を石川に集めるように依頼したのです。その第一号が島袋光裕氏でした。
20 年12月開催された芸能大会の中心演目は「花売りの縁」で“森川の子”一家の家族離散の苦しみと再会の喜びを描いた組踊りであます。観衆はわが身に置き換 え涙したと言います。そのとき“森川の子”を演じた島袋氏は、後に「わたしは瞬間的に、沖縄戦で亡くした長男夫婦に三女と四女、南方で戦死した次男を思い 出していた。森川の子のわたしに取りすがる鶴松は長男夫婦であり、次男と三女、四女でもあった。わたしは胸にこみ上げてくるものを抑えかね、セリフも声に ならなかった。親と子の、つらい思い出を、観衆も俳優も共有していた」(「沖縄の証言」)と述懐しています。
ハンナ少佐は20年8月には、いち早く教科書編纂に着手し、教育再建にも多大の功績を残していますし、さらにはワトキンズ少佐と二人して博物館の建設を諮詢会に提案し、東恩納博物館を誕生させています。これが現在の沖縄県立博物館の基になっているのです。
*メイヤー(村長)に任命される*
米 軍は沖縄全島を12地域に区分して地域毎に収容所を設置、非戦闘員である避難民を戦場から隔離、保護しました。崩壊した自治組織を再建し、軍政を円滑に推 進させるために、避難民収容所ではまずメイヤー(村長)を任命しました。選考に当たっては英語の話せる者、米軍に協力的な者が優先されました。
メ イヤーの仕事は命がけの職務です。日本軍からは裏切り者と見られ、いつ暗殺されるか分かりません。米軍もこのことを懸念して、メイヤーの住居には護衛を立 て、周囲を有刺鉄線で囲ったのです。事実、羽地の嵐山で米兵に射殺された日本軍中尉の手帳には約300人の名前がスパイ容疑者としてリストアップされてい たと言います。
米軍によって最初のメイヤーが任命されたのは昭和20年4月、羽地村田井等の収容所でした。その後、田井等では投降者が急増し居住地域も広がりを見せたので、6月には田井等から古我地と仲尾を独立させ、新たなメイヤー(村長)と助役を任命することになります。
「古我地」のメイヤーは比嘉善雄氏(開南中学・二中・三中の英語教師)、助役は沢岻安永氏。「仲尾」のメイヤーは政岡玄次氏、助役は山里景春氏(前出、二中15期)が任命されました。
比嘉善雄氏がメイヤーに任命されたのは以下のような理由からでした。
彼 の山中の避難小屋が5月20日頃の夜来の豪雨で食糧もろとも川に流されたので仕方なく、家族を伴い、命がけで自宅のある古我地に降りてきました。彼の下山 を知った米軍は田井等地区の司令官自ら彼を訪ね「ミスター比嘉、このあたりの沖縄人のために、メイヤーになってくれ」と強引にメイヤーに任命されたので す。空き家になっていた彼の自宅にはキリスト教関係の洋書が多数残されていたのを米軍は探索済であり、彼が米国留学の経験者であることも知っていました。 英語の出来る彼の協力がどうしても欲しかったのです。
これまでも彼は英語が出来るということで日本兵に命を狙われており、この上、米軍に協力したとなれば、日本兵に狙撃される危険が非常に高くなる。彼は強く辞退したが、聞き入れてはもらえませんでした。
彼のメイヤー就任が、この後、志喜屋先生に大きな影響を与える事になるのです。
比 嘉メイヤーが司令官のメイ大佐から指示された最初の仕事は「沖縄での戦闘はここ二、三日中に終了する、だから、すぐ山狩りにかかって日本の敗残兵を掃討す るために、この近くの山にも砲弾を撃ち込み攻撃する。君の村の近くの山中にいる一般住民は、はなはだ危険である。だから君は、山の中にいる住民に早く山か ら降りるよう呼びかけ、住民を日本兵から引き離して、急いで山から降ろせ」と言うものでした。(比嘉善雄著「わたしの戦後秘話」)
メイ大佐の命令を受けた比嘉メイヤーは、山中に潜んでいる日本兵にスパイ嫌疑で殺されるかも知れない危険をも顧みず山中の避難民に下山するよう懸命に呼びかけました。必死の努力が功を奏し、1日で1万人近くの人々が山を降りたと言います。
*ミスター・シキヤを捜せ*
メイヤー比嘉家の座敷には志喜屋孝信先生の写真が飾られていました。それには以下のような理由(わけ)がありました。
昭和11年秋、彼(比嘉善雄氏)はロスアンゼルスの神学校を卒業し帰国の途につきます。横浜港に上陸した米国帰りの彼は特高にマークされることとなり、東京での必死の就職活動も成果なく、あきらめて故郷沖縄へ帰ることを決意します。妻子とは5年ぶりの再会でした。
し かし、沖縄でも特高の目を気にして米国留学帰りの彼を受け入れてくれる就職先はありません。米国を発つとき義兄にもらった有力者宛の紹介状もなんの役にも 立ちませんでした。ところが、その中でただ1人、誠心誠意相談に乗り、きちんと対応してくれた人物がいたのです。開南中学校長志喜屋孝信先生でした。学校 創立直後で財政的余裕が無いにも拘らず、開南中学の英語教師に採用し、半年後には二中の山城篤男校長を説得して二中の英語教師へ、さらに2年後には自宅か ら通えるようにと郷里の三中の英語教師の職を斡旋してくれ、やっと彼は家族のもとへ帰ることが出来たのです。
比嘉氏にとって志喜屋先生は心から尊敬する、生涯の師となったのです。
メイヤーとなった比嘉家には沢山の米兵が出入りしました。その米兵達は座敷の志喜屋先生の写真を目ざとく見つけ、「あれは誰か」と尋ねる。「偉大な教育者で、わたしの最も尊敬する人物である」とその都度、彼は答えました。
6 月末のある日、田井等地区の憲兵隊長のカーストン少佐が意見を聞きたいと比嘉家を訪ねてきました。「今、米軍では沖縄に中央政府を組織してガバナー(知 事)を任命する計画があるが、貴君なら誰を推薦するか」と。彼は躊躇することなく「ミスター志喜屋をおいてほかにはいない」と志喜屋先生の写真を指差しま した。「戦後の混乱時代に民政を任せるなら政治家ではいけない。人心を安定させる上からは、人格高潔で徳望の厚い人でなければならぬ。志喜屋先生のような 偉大な教育者なら最も適任だと信ずる」(「わたしの戦後秘話」)と強く推薦しました。
数日後、再び現れたカーストン少佐は「メイヤー比 嘉、方々で情報を収集したが貴君が推薦したミスター・シキヤは言葉どおり立派な人物だと言う事が分かった。軍では彼をガバナーに推すつもりだ。至急ミス ター・シキヤを探し出して欲しい」と志喜屋先生の探索、救出を比嘉メイヤーに依頼したのです。
米軍政府は沖縄を統治するに当たって沖縄人を構成員とする諮問機関を設置し、住民の意見を聞きたいと考えていました。その諮問機関のメンバーには住民の信望が厚く、かつ米軍政府のよき相談相手になりうる人物を探し出す必要があったのです。